普天間基地~中城

2017.09.11(月) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
4 時間 5
休憩時間
50
距離
54.5 km
のぼり / くだり
646 / 646 m
4 5

活動詳細

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 最終日の半日は旧日本軍の陣地があった所で米軍普天間基地を見下ろせる嘉数高台展望台、古い沖縄の典型的住宅の中村家、中城(なかぎすく)城址を廻りました。  普天間基地に隣接する住宅は米軍の戦闘機や軍用機の離着陸で騒音に悩まされ、危険性から撤去が叫ばれ、沖縄国際大学構内に米軍ヘリが墜落炎上した事故など多くの日本人は覚えているでしょう。オスプレーも常駐し、当日もNHKが大分に緊急着陸した機体が飛立つか、撮影していました。2機がエンジン始動し、1機だけ飛立つのが見えました。故障機ではなかったようです。  この小高い石灰岩の丘は上陸した米軍と16日間にわたる激戦「嘉数の戦い」で知られます。沖縄に投入された日本軍の総兵力は約100,000人と言われ、ここで64,000人もの戦死傷者をだし、後方へ撤退した。見れるトーチカ跡だけでは全容は分かりませんが、素掘りで狭く頑強には見えません。そこで良く戦ったものです。私も昭和20年7月B29の焼夷弾爆撃の下に居ましたが、その比でない凄ましさが目に浮かび涙しました。愚かなる戦争に駆り出され戦死した将兵の方々に黙祷を捧げました。  中村家住宅は18世紀に建てられたと伝わり、鎌倉・室町時代の日本建築様式の流れを汲み、士族に農家形式が加り沖縄住宅建築の特徴すべてが備えられている貴重な建物であり、国の重要文化財です。丁度、建築関係者が専門の方から説明を受けていました。沖縄戦で米軍は焼き払わず接収して、床を板張りにして一時、司令部にしたそうでです。  中城城址は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つで世界遺産です。14世紀後半の築城で1440年王命により護佐丸が、座喜味城から移封、勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築、城を完成させた。しかし、忠義の将と言われる護佐丸は1458年自害に追いやられました。1853年ペリー来航したとき、城壁、アーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆したと言われます。確かに独特の城壁の曲線が美しいです。入口からカートで正門付近まで無料で送って頂けました。  中村家住宅で中城村発行の「護佐丸クロニクル」の冊子(29ページ)と漫画を頂きました。中城と護佐丸、尚王家との関係や歴史を知る良い資料です。

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