活動データ
タイム
02:23
距離
5.9km
のぼり
197m
くだり
196m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る小島烏水(コジマウスイ 1873年12月29日-1948年12月13日)という方をご存知でしょうか。 横浜正金銀行に勤めるサラリーマンながら、随筆家、文芸批評家、また登山家として日本山岳会初代会長だった人です。 映画にもなった「劒岳点の記」にも登場します。 生まれは香川県だそうですが、父親の転勤で子どもの頃から横浜に居住していました。 著名人の割には、ゆかりの地等の情報がほとんどありません。(お墓は文京区の常泉院にあることがわかりました) 住んでいたのはどのあたりでしょう。 石川啄木の日記や住所録には、小島烏水の住所が「横浜市西戸部町八九八」と記されています。 都合よいことに横浜市立図書館デジタルアーカイブに1911年(明治44年)発行の「横浜市西戸部町戸部町伊勢町老松町番地図」があり、898と読める地番があります。随筆「亡びゆく森」に「今私の住居してゐる山王山附近である」とあり、地図にも山王山の記載があります。また、隣接して税関官舎がありますが、烏水の父親が税関職員だったこととも関連付けられます。現在の地図で西戸部町1-45か46の、三角の地割りがそうではないかと思われます。 「亡びゆく森」には当時の様子が垣間見られる記述がいくつかあります。 「私は中学校の裏から、久保山へ抜ける森の中の落葉道で・・・」 この中学校は烏水が通っていた横浜商業高等学校(野球が強いY校)とも考えられますが、学校の裏から久保山に抜ける道があるとすると、旧制県立第一中学校ではないかと思われます。 「豚谷戸だの、乞食谷戸だのといふ綽名があつて、特殊の部落も、その窪地にある・・」 豚谷戸は西戸部にあったとされていますが、正確な場所はわかりませんでした。乞食谷戸というのは現在の南太田~久保山付近にあった、戦前まで日本最大の貧民街といわれた一帯のことです。その地の生活者についての記述もあり、谷戸の住民が木を切り倒してしまうことを嘆いてもいます。 「森林の壁一重を隔てゝ、内には寺院があり、墳墓があり、孤児院と救護所があり・・」 明治39年の地図に既に救護院と孤児院の記載があります。現在の地図で救護院はありませんが、孤児院があった場所には三春台公園と保育園が確認できます。 「亡びゆく森」が書かれたのは、地図が作成された昭和7年頃と言われています。この頃既に、丘陵地の斜面にしか森は残っていなかったのだと思いますが、「私の宅の周囲も・・染色硝子(ステンドグラス)を立てゝゐたが、一角だけを残して、殆んど全部が、(谷戸の住民に)滅茶滅茶に破壊された」とか「この森の中で、首縊(くびくゝり)が二人ばかりあつた・・」とあります。無法者が住み付き、人目を避けて首吊りできる程度の樹木はあったようです。 尚、烏水の著作は青空文庫や横浜市立図書館デジタルアーカイブ等で読むことが出来ます。 前書きが長くなってしまいました。烏水が歩いたであろう、西戸部から庚台あたりを行ってみます。
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