大山の歴史

2017.12.09(土) 日帰り

活動詳細

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大山の宗教的夜明け  天平五年(七二三)に成立した『出雲国風土記』は八束水臣津野命ヤツカミズオミヅノミコトの国引神話において「固堅カタめ立てし加志カシ(杭)は、伯耆国なる火神岳、是なり」と記述し大山を火の神カグツチを祀る山として認識していた。出雲地方から遠望する大山はその山容まことに端正、神宿る山にふさわしかった。  七世紀中頃から八世紀中頃にかけて、大山は山岳で修行する者たちの来山がしきりであった。『大山寺縁起』によると天武十二年(六八三)役優婆塞エンノウバソクが来て、三胡サンコの岩屋や馬頭メズの巌窟で修行したという。三胡の岩屋と馬頭の巌窟はその後、中世にいたるまで山伏の修験場であった。また、神亀五年(七二八)には、行基が来山して文珠童子の社檀で七日間の精神径行をしたと伝える。  こうして大山の宗教的夜明けは、修験者によって幕が開けられ、やがて天喜・康平テンキ・コウヘイの頃(十一世紀中頃)には、「伯耆大山は山伏修行者の修験の場」(『新猿楽記』)として、中央で認知されるまでになった。  承和十四年(847)十年間に及ぶ苦難の入唐求法巡礼を終えた慈覚ジカク大師円仁エンニンが帰朝し、比叡山に常行三昧堂を建立、往生極楽を目指す念仏三昧を取り入れる。その影響を受けた大山もまた天台密教の霊地として、『法華経』を拠りどころとする延暦寺の末寺に組み込まれ阿弥陀信仰が盛となった。  大山寺最古の構造物である阿弥陀堂は平安時代に建てられ、その後いく変遷して天文年間(1532~1554)に補修再々建された。堂内の阿弥陀三尊仏は天承元年(1131)に京都三条の仏師良円の手になる。  こうして古代の大山は阿弥陀信仰が中心であったが、その影響は江戸時代の院坊の本尊に現れてい四十二躰のうち十二躰が阿弥陀仏である。  ところで大山は中門院・南光院・西明院の三院から構成されていて、各院の中心に大日如来(中門院)・釈迦如来(南光院)・阿弥陀如来(西明院)を祀り、衆徒を擁しその数僧坊一八十ヵ寺、僧兵三千人といわれた。  各院谷はお互いの利害を巡って、ときには近隣の寺院(出雲の鰐淵寺ガクエンジ・伯耆三徳山ミトクサン)をも巻き込んで抗争し、そのため多くの建造物・寺宝が灰燼に帰したのは痛恨の極みであった。 平成二三年六月 杉本先生の講演から抜粋 以下 つづく

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