#66 京田辺市・八幡市散策 【一休寺散策コース】

2018.05.19(土) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
3 時間 37
休憩時間
18
距離
11.9 km
のぼり / くだり
191 / 165 m
2 11
1 25

活動詳細

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#66 京田辺市・八幡市散策 【一休寺散策コース】 ウォーク距離 12.0km 今日は、会社のOBの支部総会が城陽市寺田「文化メルク城陽」が行われました。終了後、京田辺市にある「一休寺」を尋ねることとして新田辺駅から歩き始めました。 一休さんが晩年を住み暮らした寺でお墓もあります。 お墓がある建物自体は宮内庁管理のため、菊の御紋の穴から覗くことしか出来ませんでした。天皇家の血筋の引くためお寺であっても菊の御紋が使われていました。 方丈庭園を眺めながら座禅を組むと心安まると思いましたが、足が痛かったのでアグラにしました。 京都市内からやや離れているせいで、そんなに混雑していないし、雰囲気良く、閑静でじっくりとゆったりと時間が流れが楽しめる穴場なんです。 今の時期の青いもみじの参道も良いものです。 また、一休さんでお馴染みの「屏風の虎」や「この橋渡るべからず」などの名場面もありますぞ。 ~松井山手駅でバスに乗ろうとしましたが、待ち時間があったので自宅まで歩きました。 近鉄寺田駅~文化メルク城陽~近鉄寺田駅=新田辺駅~西念寺~棚倉孫神社~一休寺/酬恩庵庭園~薪神社~西光寺~手原川橋~松井山手駅~第二京阪道~コストコ~八幡洞ヶ峠~自宅 【酬恩庵一休寺】http://www.ikkyuji.org/ 当時の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めである。然るにその後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(1455〜6年)、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵(しゅうおんあん)」と命名した。 禅師はここで後半の生涯を送り八十一歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通われたのであり、文明13年(1481年)11月21日八十八歳の高齢を以って当寺において示寂され遺骨は当所に葬られたのである。このように禅師が晩年を過ごされたことにより「一休寺」の通称が知られるに至ったのである。 一休宗純: 室町時代を生きた臨済宗大徳寺派の禅僧。京都生まれで幼名は千菊丸。後小松天皇あるいは足利義満の血を引くともいわれています。6歳で京都の安国寺に入門し、周建の名前を授かりました。幼い頃より漢詩の才能を開花させ、『長門春草』を13歳のときに、15歳では『春衣宿花』を著しています。一休の名付け親は大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)。 一休の「「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」の言葉から、華叟が道号として授けました。その後、さまざまな人生の紆余曲折を経て、1481年、88歳で病没。一休寺で静かに眠っています。 一休寺納豆: 当寺製造の一休寺納豆は、そのもと一休禅師の伝授にして数百年前より伝わるものであります。 応仁の乱で飢えに困っていた人々に禅師がその製法を伝えその先々で少しずつ独自の製法を取り入れ現在に伝えられております。 当寺では蒸した大豆にはったい粉と麹を混ぜ発酵させそれから塩湯と共に納豆桶に移し約一年間天日干しにしたものです。 肉食をしない僧侶にとり貴重なたんぱく質補給の栄養源としてまた保存食として珍重されてきました。 その独特の塩見のきいた味は噛むほどに深い味わいが楽しめます。 一休寺納豆は、ねばねばとした納豆とは異なり、塩辛く独特の風味がある黒色の納豆。室町時代に寺を再興した一休禅師に伝えられたという。おけに納豆の下地を入れ、しゃくしでかき混ぜ、その後1年をかけてじっくり水分を飛ばすなど手間のかかる工程です。すべて田辺宗弘副住職ら寺の関係者によって手作業で製造されます。 一休寺精進料理: 森女弁当     1850円 一休寺弁当    2260円 松花堂弁当    3400円 一汁九菜精進膳  4700円から 本日の出発から帰宅までの歩数: 24,157歩

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