座游奔放80 岩屋山に「八大龍王」発見

2018.08.20(月) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
4 時間 33
休憩時間
1 時間 14
距離
5.7 km
のぼり / くだり
586 / 588 m
3 15

活動詳細

すべて見る

 友の電話に飛びつき、岩屋山頂(475.2m)で待ち合わせる。 正面の参道から、途中左の稜線(稜線への路は、私には新ルート)へ行くことにした。 山門右に面白い図柄の石碑(龍か蛇か)を見つけた。 12時直前に、山頂。久ぶりの出会いに話も弾む。  上鉢巻・下鉢巻を歩き、屏風岩方向へ降る。 途中の岩場から、左の谷へ方向転換して降る。私達には新しいルートである。  時間の都合もあり、屏風岩手前から、屏風岩~「岩屋山頂・式見ダムの稜線」へ入る。 山頂へは上がらず、巻道を経て、「仁田尾供養塔残欠群」から虹ヶ丘小学校へ降る。  汗を拭こうと、「六部堂」へ。 何気なく、裏を覗いたら、「八大龍王」発見。マサカ、マサカである。

岩屋山・舞岳 横倒しの扁額「巖屋神社」
横倒しの扁額「巖屋神社」
岩屋山・舞岳 横倒しの「鳥居」
横倒しの「鳥居」
岩屋山・舞岳 「剣に絡みつく龍」、なかなか見ない図柄の石碑。もしかして「八大龍王」か?の疑念湧く。
「剣に絡みつく龍」、なかなか見ない図柄の石碑。もしかして「八大龍王」か?の疑念湧く。
岩屋山・舞岳 岩屋山案内図。「稚児落とし」は雲仙にもある。
岩屋山案内図。「稚児落とし」は雲仙にもある。
岩屋山・舞岳 合流点。左手前方向と正面の合流。
合流点。左手前方向と正面の合流。
岩屋山・舞岳 ヤマラン。ヤマ歩きはとまラン。お後がよろしいようで?
ヤマラン。ヤマ歩きはとまラン。お後がよろしいようで?
岩屋山・舞岳 左右の谷の合流点。この後も下流方向へ降る。
左右の谷の合流点。この後も下流方向へ降る。
岩屋山・舞岳 長崎市史跡『仁田尾供養塔残欠群』
長崎市史跡『仁田尾供養塔残欠群』
岩屋山・舞岳 長崎市史跡『仁田尾供養塔残欠群』の由来。
 室町時代末期の供養塔及び墓石の残欠群で(内3個は逆修塔)、もとはこの付近一帯に散在していたものを集めたものである。その数は全部で42個あり、宝篋印塔もあるが、その多くは五輪塔である。銘文が解読されるものは6個で、その最も古いものは応仁3年(1469)であるが、そのいずれもが密教系僧侶のものである。
この岩屋山には、戦国末期に有馬の軍勢やキリシタンによって焼打された神宮寺の存在が伝えられるが(その神宮寺を再興したのが神通寺(現・岩屋神社)といわれる)、 その神宮寺の奈良時代開創は別として、 確かに岩屋山に中世期密教系の寺院が存在したことを証明するものとして、この残欠群の資料的価値は高い。(引用:長崎市HP)
長崎市史跡『仁田尾供養塔残欠群』の由来。  室町時代末期の供養塔及び墓石の残欠群で(内3個は逆修塔)、もとはこの付近一帯に散在していたものを集めたものである。その数は全部で42個あり、宝篋印塔もあるが、その多くは五輪塔である。銘文が解読されるものは6個で、その最も古いものは応仁3年(1469)であるが、そのいずれもが密教系僧侶のものである。 この岩屋山には、戦国末期に有馬の軍勢やキリシタンによって焼打された神宮寺の存在が伝えられるが(その神宮寺を再興したのが神通寺(現・岩屋神社)といわれる)、 その神宮寺の奈良時代開創は別として、 確かに岩屋山に中世期密教系の寺院が存在したことを証明するものとして、この残欠群の資料的価値は高い。(引用:長崎市HP)
岩屋山・舞岳 「六部堂」
「六部堂」
岩屋山・舞岳 「岩屋山六部大師堂の由来」長崎市史抜書。祭日八月三十一日
「岩屋山六部大師堂の由来」長崎市史抜書。祭日八月三十一日
岩屋山・舞岳 「八大龍王」。昭和二十二年三月建立。
何回も上る岩屋山ですが、「六部堂」の裏は初めて見た。
「八大龍王」。昭和二十二年三月建立。 何回も上る岩屋山ですが、「六部堂」の裏は初めて見た。

もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。