活動データ
タイム
02:15
距離
1.9km
のぼり
161m
くだり
99m
活動詳細
すべて見る広島市中心部に出向いたついでに またまた西区の三滝寺へ JR可部線 みたき駅前から薬草園跡経由で三滝寺 本堂の少し先 滝の上の登山口まで 久々に訪ねてびっくり 唖然 愕然 悶絶.. 宗箇山のふもとの 広島藩主 浅野家時代の薬草園跡『日渉園』が 私のなかで いつのまにか『宗箇園』に化けていた <訂正> ≫≫ (-_-);; 2018.09.06活動日記【三滝寺~思い出せない想い出】のなかで <余談>『上田宗箇』のメモに大きな間違いがあった ⇒『縮景園(現在広島市中区)や 宗箇園(同西区JR三滝駅近くの旧薬草園)の造園に関わる』と記したが「宗箇園」は存在せず 「日渉園」の間違いだった 「日渉園」に上田宗箇は関わっていない <余談> 「日渉園跡」の存在を私が知ったのは近年になってからのこと 住まいの近くに山の会が発足した当初にガイド役の先生が 宗箇山山行の際に立ち寄ってくださったのが最初だ 手持ちの資料を確認するとヤマケイの『広島県の山』(2003年版)に『日渉園』の名称だけ記述があるが興味を持つほど認識できていなかったようだ 2018年版では宗箇山は載っているが日渉園の記述が無い 蛇足だが 2018版は私が好きな「窓ケ岳」(窓が山)が削除されたので購入しておらず本屋で確認した 私のなかでいつから『日渉園』が『宗箇園』に化けてしまったのか?? 私が先に知ったのは「宗箇山」につながる歴史上の人物「上田宗箇」 武将・茶人であり 造園家でもあるといわれる多才な上田宗箇(1563年-1650年) そこへ同じく浅野家の時代に薬草園を作った人物が登場 藩医の後藤松眠(1755-1828)なのだが どちらも浅野家に仕えていたという共通点が先走ったのだろうか ガイドの先生に『日渉園』に案内されたときに『造園家でもある上田宗箇が薬草園も造ったのか..』などと もしかしたら最初から混同してしまっていたのかもしれない 上田宗箇と三滝山のつながりは 広島城下の茶室からの借景として 三滝山の山頂に上田宗箇が松を植えさせたことが元々のようで 私が最初に手にした はるか昔のガイドブックには「植松山」と記されている 近年になってさらに「宗箇山」の呼び名が一般的になった 現在は国土地理院地図にも「宗箇山」の山名が入るに至る <MEMO> 【日渉園跡】 広島市の資料によると 『日渉園は、寛政10年(1798)広島藩の藩医である後藤松眠が、藩の命令により三滝の地に薬草園として開いたものです。当時は約8,800㎡あり、諸種の薬草が栽培されていました。現在は、庭園の一部が残っているだけですが、太鼓橋、「神農堂」と呼ばれた建物の礎石と台座及び眼鏡橋など当時の姿を偲ぶことができます。全国で昔の形をとどめた藩の薬草園で現在まで残っているのは日渉園だけです。松眠の子、後藤松軒は長崎で蘭学を研究し、シーボルトにも学び、高野長英とも親交がありました。その縁で逃亡中の高野長英をこの日渉園に、しばらくかくまっていました。広島藩唯一の藩営の薬草園であるとういう希少性、近世史に残る高野長英のゆかりの地としての歴史性から広島市の史跡に指定されています。また、平成12年、この日渉園は後藤家の好意により広島大学に寄贈され、現在、昔の記録を基に整備・研究されています。』(http://www.city.hiroshima.lg.jp/nishi/matizukuri/miryoku-map/mitaki_hp/miryoku/nisyouen/nisyou_ato.html#)
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