#88 京都史跡シリーズ  

2018.10.14(日) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
5 時間 24
休憩時間
48
距離
14.1 km
のぼり / くだり
130 / 167 m
5 25

活動詳細

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#88 京都史跡シリーズ   【御土居の跡を歩く ①】 ウォーク距離  15.1 km (開始地点ズレ補正済)   本日は、調査歩行したかった「御土居」です。 天候も最高22℃なので快適に歩き回りました。 「御土居」・・・戦後の高度経済成長期などの開発によってこの御土居はほとんどが地上から姿を消してしまっています。 その中で、京都市内に残る9ヶ所の国の史跡にしていされた御土居を三回にわたって尋ねます。 (御土居のそのものは約22.5kmあったものとされていますが、近くの道路を繋げていくと30kmあまりになります。) 歩きながらのコメントは下に書いときました。 西大路までの予定が、じっくりと観察歩行したので北野天満宮とまりで、次回は、紅葉の時期ここから開始します。 天満宮前の粟餅所・澤屋さんで一服処、昔ながらの素朴な和菓子味わいました。 その後、二条城経由御池通から京阪三条まで歩いて終了です。 地下鉄北山駅~石井神社~若狭川~ ①北区紫竹上長目町・上堀川町~西賀茂村弘法大師道道標~大宮交通公園~ ②北区大宮土居町(玄琢下)~京の七口「長坂口」~ ③北区鷹峯旧土居町2~鷹ヶ峰薬園跡石碑~ ④北区鷹峯旧土居町3(御土居史跡公園)~ 一條天皇・三條天皇火葬塚~鏡石~三條天皇北山陵~紙屋川沿い~北大路通の下を通過~ ⑤北区紫野西土居町~ ⑥北区平野鳥居前町~平野神社~ ⑦上京区馬喰町(北野天満宮境内) ~粟餅所・澤屋~二条城~御池通~京阪三条駅   本日の出発から帰宅までの歩数: 27,490 歩 歩行中の補給水分量  1.0リットル以上   明記のない資料は、「京都市考古資料館」提供の資料から転記しました。  【御土居の歴史】 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza257.pdf 天下人となった豊臣秀吉は、京都の町でいくつかの大規模な造営事業を行います。 天正14年(1586)に聚楽第、 天正16年(1588)には方広寺、 そして天正19年(1591)の御土居と続きます。 御土居の造営は天正19年(1591)に豊臣秀吉によって行われました。御土居は土塁と堀によって 京都の町を囲んだものです。その範囲は近世京都の中心部に留まらず、南は東寺、北は鷹ヶ峰、東は 鴨川、西は紙屋川に至り、延長距離は約 23km に達します。当時の記録よると、工事は天正19年の閏正月から始まり数ヶ月でほぼ終了するという突貫工事で行われたようです。 御土居造営の目的には諸説ありますが、鴨川・紙屋川の治水、外敵の侵入を防ぐ、洛中からの盗賊の逃亡を防ぐ、治安の維持などが挙げられます。 江戸時代になると、御土居は幕府の管理下に置かれ、近世都市京都を構成する重要な施設の一つとなります。御土居の名称は江戸時代になって定着したもので、豊臣期には主に「土居堀」と呼ばれていたのが、江戸時代になると次第に土塁の管理に重点が置かれ「御土居」へと名称が変化していったようです〔中村武生 1997〕。 しかし、明治時代になると民間への払い下げなどにより御土居の破壊が始まります。更にそれが本格化するのは大正8年(1919)の都市計画法の公布によるものです。これ以降、京都は近代的な都市への変化が進み、更に戦後の高度経済成長期などの開発によって御土居はほとんどが地上から姿を消してしまいます。 しかし、こうした状況に対して、大正6~8年に京都府によって現況記録が実施され、御土居の歴 史的重要性が注目されます〔西田直二郎・梅原末治 1920〕。この成果を受けて、昭和5年(1930)京都市内に残る8ヶ所の御土居が国の史跡に指定され、御土居の保全が図られました。更に昭和40 年には北野天満宮境内の御土居が史跡に追加指定されています   【石井神社】 http://kaiyu.omiki.com/isii/isii.html 大正年間、伏見稲荷一の峯に石井稲荷大神の塚が創建される。昭和2年、伏見稲荷一の峯より八木トメ女により遷座。元賀陽宮家の信仰が厚く、昭和5年、元賀陽宮大妃殿下が参拝され、昭和天皇皇子誕生を神前に祈願奉幣された。現在、元町学区の鎮守守護神として崇敬参拝されている。拝殿及春日燈篭は元賀陽家の寄進。叢雲明神は賀陽家の守護神で邸内より遷座。 石井神社の地は御土居堀後に位置し、平一大明神や、市五郎神社と同様、土居や土居に住む狐の類を神格化され、祀られた可能性もある。 (参考:神詣・御土居堀ものがたり)    【①北区紫竹上長目町・上堀川町】(加茂川中学前) 賀茂川沿いに近い加茂川中学前付近にあり御土居の北東角にあたるという横の暗渠から若狭川が流れています。御土居の北東角の屈曲部分で、堀川通に分断されていますが、通りの東側と西側に土塁の土盛りを確認することができます。    【大宮交通公園】 交通ルールを楽しく学べ、模擬道路を走るゴーカート(有料)が人気の交通公園。園内南側に御土居の一部が残っています。土塁の脇には平一稲荷社があり信仰の場としての御土居を感じる事ができます。      【②北区大宮土居町(玄琢下)】 保存状態が最も良く、約2 5 0 mにわたって御土居が現存しています。金網で囲われており外側からしか見学できませんが、堀と土塁の構造がよくわかる御土居です。  南側に招善寺および大宮西野山児童公園、大宮西野山児童館があります。     【七口の由来】 https://ja.wikipedia.org/wiki/京の七口 京の出入口を表す言葉としての「口」は、鎌倉時代後半から使われていたようであるが、室町時代になるとその出入口をはじめとして、幕府、寺社、朝廷(公家)などさまざまな主体が「七口の関」と称される関(関所)を設け関銭(通行料)を徴収するようになったため、記録に関として「口」がみられるようになる。    【③北区鷹峯旧土居町2】 御土居の北西角に当たる部分です。御土居餅を販売する向かいの光悦堂さんに鍵を借りて中へ入ることができます。ここで、御土居餅を頂きました一個140円。     【鷹ヶ峰薬園跡石碑】 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ki069.html 江戸幕府は寛永17(1640)年に鷹ヶ峰に薬園を開き,幕府医官藤林道寿綱久を薬園預りに任じた。藤林家は代々鷹ヶ峰に居を構え,道寿の称を世襲し薬園(薬草園)の管理にあたった。この薬園は『京都御役所向覚書』によれば面積一万平米の薬草畑を持つ大規模なものである。     【④北区鷹峯旧土居町3】(御土居史跡公園) 公園として整備された御土居。土塁の頂部まで登ることができ、その高さを体感できます。 是非お勧めスポットです。     【三條天皇北山陵】 https://kyotofukoh.jp/report1834.html 平安時代中期の第67代・三条天皇(さんじょう てんのう)が葬られている。近くに、三条天皇、第66代・一条天皇の火葬塚も残る。     【⑤北区紫野西土居町】 住宅地の一角にわずかに土塁が残ります。西土居町という地名にも御土居の名残を感じます。 周りは住宅地で、この一角が辛うじて残っています。     【⑥北区平野鳥居前町】 台形の土塁に芝が植えられており、指定史跡の中でも、その形状が最も良く分かります。道路脇には御土居から出土した石仏が祀られています。 このときの石仏たちは着物が着せられて無く淋しげでした。     【平野神社】 http://www.hiranojinja.com/home/gaiyo 桜の神紋を持つ神社。珍種を含む約50種類の桜の木があり、時期には大勢の参拝客で賑わいます。殿は「比翼春日造」「平野造」と呼ばれる独特の構造です。  奈良時代末期の延暦元年(782)『続日本紀』に「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」とあり、平城宮の宮中(桓武天皇の父光仁天皇の御所)に祀られていました。 ここ平野の地には、延暦13年(794)平安遷都と同時にご遷座されました。 当初境内地は方八町余(平安尺で1500m四方)で、現在の京都御所とほぼ同じ大きさでしたが、時の変遷とともに現在の200m弱四方となりました。 平成30年台風21号の被害により拝殿の倒壊をはじめ、桜の数十本の倒木など甚大な被害を受けました。     【上京区馬喰町】(北野天満宮境内) 境内西側に残る御土居の頂部には見晴らし台が設けられ、土塁構築の際に植えられたとされるケヤキ の大木があります。  今回は、台風の影響で立ち入れませんでした。フェンスの外から眺めました。    

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