#99 京都市街地めぐり   【三条通・四条通完歩コース】

2018.11.15(木) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
7 時間 32
休憩時間
29
距離
27.9 km
のぼり / くだり
147 / 176 m

活動詳細

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#99 京都市街地めぐり   【三条通・四条通完歩コース】 ウォーク距離 28.0 km   本日は、三条通りと四条通りの全路線のソロ・ウォーキングを行いました。今まで、東西の横の通りの完歩したのは、一条通りと六条通りです。 結果は、縦の通りの分いれた全歩行距離28.0 km 時間7時間37分で、 内訳は 三条通り: 東は山科区四宮~西は右京区の嵐山(渡月橋)16.4 km 四条通り: 東は東山区八坂神社~西は西京区松尾大社 8.7 km でした。 三条通りは、四条通りの倍の距離がありました。 遅めの昼食は、天下一品太秦店で炭水化物大入りの野菜炒め定食をいただきました。。。 今回の行程で特に、三条通りの“御陵~日ノ岡~蹴上”の間の“怖い魔界”に注目しました。 他にも沢山立ち寄りたいところもありましたが、一日で全行程を踏破することにして努めて4km/hで前進しました。怖い解説は、下に書いておきます。 京都の地名は、分りやすいルールがありますが『三条御池』『堀川四条』『四条堀川』について現場検証しました。タクシーの運チャンに通じるのかな?? 京阪四宮駅~ 三条通起点~外環三条~五条別れ~京都薬科大学~毘沙門堂への入口~天智天皇山科陵/日時計碑~御陵/御陵駅~本圀寺への入口~日ノ岡/粟田口名号碑~日ノ岡宝塔~廃墟と化した全和鳳美術館~京阪電鉄京津線跡~蹴上浄水場~日向大神宮への入口~ねじりまんぽ~蹴上発電所(土木学会選奨土木遺産)~粟田神社~三条神宮道~坂本龍馬お龍「結婚式場」跡~白川橋~東山駅~東山三条/東大路通~三条京阪駅~高山彦九郎像~三条駅~三条大橋~河原町三条~たらたら坂~寺町通~旧日本生命京都支店~京都文化博物館~中京郵便局~東洞院通り~大西清右衛門美術館~烏丸三条~堀川三条~千本三条~三条御前~北野天満宮瑞饋祭駐輦所~教宣寺~西大寺三条~島津製作所~三条西小路~葛野大路三条~猿田彦神社 (山之内庚申)~天神川三条~『三条御池』~三条太秦~蚕ノ社駅~太秦~広隆寺~天下一品太秦店~太秦駅~帷子ノ辻駅~天山の湯~斎宮神社~有栖川~車折神社/芸能神社~斎明神社~清滝道三条~渡月橋~三条通終点   四条通起点~松尾大社~松尾大社駅~松尾橋~梅宮大社前~梅酢段町~葛野西通四条~天神川四条~京都外国語大学~葛野大通り~西小路四条~西大路四条~西院駅~御前通四条~七本松通り~山陰本線~千本通り~元祇園梛神社~坊城通り~壬生川通四条~四条大宮~『堀川四条』『四条堀川』~西洞院り~四条烏丸~寺町京極~四条河原町~四条大橋~京都四條南座~八坂神社~四条通終点 ~京阪四条駅     本日の出発から帰宅までの歩数: 46,376歩 歩行中の補給水分量  0.5リットル以上       【五条別れ】 左は五条へ右は三条へと分岐点でした。 このような分岐点を「わかれ」と表示するのは京都の特色で、他の例として「野村別れ」「柊野別れ」などが挙げられています。 「野村別れ」野村町は高野川の橋を渡った対岸にあり、野村への道の分岐点(わかれ道)を意味する。「柊野別れ」柊野から雲ケ畑方面と貴船方面へ行く道と別れています。柊野別れはその昔、処刑される罪人を見送りにきたその家族は、ここの先はついていけず、この別れで永遠の別れをしなければなりませんでした。     【天智天皇 山科陵】 https://www.travel.co.jp/guide/article/20003/ 京都市山科区に御陵(みささぎ)と呼ばれる地名があり、その語源となっているのが京都で一番古い天皇陵である「天智天皇陵」です。観光地化されていない為、普通は素通りしてしまいそうな場所なのに、参拝する人が今密かに増えているのだとか!? 飛鳥時代の第38代天皇である天智天皇を祀る「天智天皇 山科陵」は数多い京都の天皇陵の中でも最古のものとされる由緒ある存在で、考古学的には御廟野古墳という名の古墳です。 天智天皇というよりは「中大兄皇子」といった方がピンと来る方も多いのではないでしょうか。 天智天皇とは中臣鎌足と共に豪族の政治に終止符を打った、大化の改新の立役者・中大兄皇子の後の名だったのです。 【日時計碑】 「天智天皇 山科陵」の入口付近をよく見ると、大きな日時計が設置されています。この日時計は、昭和13年に建てられたもの。なぜ、こんな所に日時計があるのかというと、天智天皇は日本で初めて時計を設置した人でもあったためです。 実際は日時計ではなく、漏刻(ろうこく)という水時計を設置して、時刻に合わせ鐘や太鼓をならしたそう。天智天皇は時間を知らせる報時制度をも作ったのです。ちなみにその漏刻を設置した日は6月10日、つまり時の記念日として制定されているのです。     【御陵/御陵駅】 御陵(みささぎ)と読み、京都府京都市山科区の地名です。 西京区にある「御陵」という地名は(ごりょう)と読むそうです。この「御陵」という言葉は、もともと「天皇・皇后など皇室の墓」という意味です。天皇や天皇の生母の墓が近くにあることが地名の由来となっています。 御陵(みささぎ)は、天智天皇の墓とされている山科陵に由来します。 御陵駅は、京都市交通局と京阪の共同使用駅であり、京都市交通局が駅を管轄しています。京都市営地下鉄東西線と、京阪京津線の2路線が乗り入れています。     【1971年8月14日までの京津線】 三条駅-東山三条駅-蹴上駅-九条山駅-日ノ岡駅-御陵駅-京阪山科駅-四宮駅-追分駅-大谷駅-上関寺駅¬-上栄町駅-浜大津駅     【日ノ岡/粟田口名号碑】 https://kyotopi.jp/articles/wjlVW 九条山に向かう三条通り沿い。日ノ岡を過ぎたあたりに粟田口名号碑があります。こちらが日ノ岡刑場跡を示すものでしょう。 平安遷都(794年)から明治時代の東京遷都まで、京都では、たくさんの罪人が処刑され、蹴上駅付近は粟田口刑場と呼ばれ、都が京都にあった約1,100年の間に15,000人以上の罪人が処刑されたそうです。そういえば「蹴上(けあげ)」という地名も、処刑された罪人の首がゴロゴロと転がっていて、蹴り上げるほど無数にあったことからその名がついた、という話は有名。この他にも、山科には血洗町という地名があるのですが、これもその昔戦で使用した血の付いた刀をこの地で洗ったことから名づけられた、との言い伝えが。恐ろしや。 【日ノ岡宝塔】 処刑された罪人たちのために、各仏教諸宗によって1,000人に1基ずつ15基の供養塔が建てられたと伝えられています。しかし、これらの供養塔は、明治時代になって粟田口刑場が廃止された後、仏教寺院の既得権益を取り上げるなどを行った廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、破壊されてしまいました。 廃仏毀釈から約70年が経過した昭和14年(1939年)。法華倶楽部創設者の小島愛之助によって、処刑者の霊の冥福を祈るために供養塔が建てられました。それが、日ノ岡宝塔です。 もしも、この供養塔が建てられなかったら、平安時代から江戸時代までに京都で処刑された罪人が15,000人以上いたといった歴史は、忘れられていたかもしれませんね。 【粟田口刑場名号碑】 (撮った写真がボケています) https://kyotofukoh.jp/report891.html 三条通を蹴上、九条山方面に坂道を上ると、やがて峠道にいたる。三条通はかつて、江戸より京都に至る東海道の街道筋に当たっていた。 坂道を日ノ岡側へ少し下ると南側(右手)に崖が迫る。小さな石段がつけられており、切り開いた薄暗い薮に通じている。山裾に墓碑が2基のみ、互いに少し離れて立つ。「萬霊供養塔」「南無阿弥陀仏」と刻まれ、一方は東面、もう一つは北面している。 【九条山/粟田口刑場跡】 実際には厨子奥村飛地(京津線旧九条山駅付近の山手)また、現在の蹴上浄水場と九条山駅の間、三条通(府道43号線)を挟んだ山手付近、また、東山ドライブウェイの陸橋の西より浄水場東端の間にあったという。日岡(日ノ岡)刑場とも呼ばれ、磔刑、獄門があったとも言われている。 蹴上浄水場の南、東山ドライブウェイの花鳥橋の北、九条山の西麓。都ホテルからもすぐ。 豊臣秀吉の甥っ子秀次の妻妾幼児たちが処刑された事件が有名です。 アクアパーク東山跡地の近くを通ると夏場でも寒気を感じるとか・・・昨年知らずに、九条山バス停から近くの東山ドライブウェイを通って将軍塚に行きました。 【全和鳳美術館】 https://kyotopi.jp/articles/J663j 九条山という京阪バスのバス停あたり。 九条山バス停あたりにそびえ立つ元美術館昔はが、当時京阪電車が路面電車だったころ確認できたそうです。今となってはいつ崩れ落ちるかわからないような状態。     【蹴上/蹴上駅】 源義経は16才になった時に、金商人の金売吉次(かねうりきちじ)に伴われて奥州平泉へ旅立ちました。粟田口から九条山の坂に向かっていた時、平家の家臣ら10名が正面からやってきました。すれちがいざまに、彼らが乗っていた馬が水たまりの水を蹴り上げ、汚れた水が義経にかかってしまいました。義経はこれに激怒し、10名を即座に切り捨てたという言い伝えが残されています。そこから、この場所の名前が蹴上と呼ばれるようになったと一説です。別の言い伝えとして、洛中から罪人を蹴り上げて九条山の刑場に連れて行ったことから、この辺りを蹴上と呼んだという話もあります。 今では、東山から蹴上に向かう道筋などはとても文化的なエリアです。知恩院や平安神宮なども徒歩圏内で、市立美術館や博物館、動物園などもすぐ近くにあります。     【ねじりまんぽ 雄観奇想】 http://510.kyoto.jp/?p=684 かつて琵琶湖の水を京都にまで引くことなど夢物語であった。しかし、明治の時代にそんな奇抜なアイデア(奇想)を抱き、実現させてしまった人たちがいた。発案者である当時の京都府知事・北垣国道と推進役の若きエンジニア田辺朔郎である。 山を掘り、トンネルを通し、山を掘り、トンネルを通し・・・気の遠くなるような作業を五年重ねて、琵琶湖から京都まで物資を運ぶ水路、琵琶湖疏水を貫いたのである。琵琶湖側から山中をぬってきた水路は、東山蹴上で高低差のある京都側の船着き場まで台車に載せて船を上下させる線路「インクライン」へとつながれる。その傾いた地形の真下に掘られたこの小さなトンネルは、強度を保つためにレンガを斜めに積む「ねじりまんぽ」という独特の技法が用いられている。若き田辺が欧米から学んだ技術の粋を集めて作り出した疎水の景観こそ、明治の新しい世を象徴する「雄観」という言葉にふさわしい。 【三条河原】 三条河原はかつて京都の処刑場で、 戦国時代には激戦地でもあり石川五右衛門や豊臣秀次の一族が命を落とした血なまぐさい場所。古くは平将門(生首はここから現在の東京都千代田区の「将門の首塚」まで飛んでいった)また石田光成、千利休、近藤勇などが晒し首にされた場所でもあり応仁の乱の時には死体置き場だったという。     【たらたら坂】 https://kyotoponto.goguynet.jp/2014/11/28/1657/ 三条通から新京極へ南に曲がると南にカクンと落ちるような坂があります。こちらの坂、通称『たらたら坂』と呼ばれています!  その昔、坂を下るときにかかとに草履が当たって「たらたら」と音がするからついた名称といわれています! なぜこのような場所に坂が出来たのか??  1590年(天正18年)に豊臣秀吉が三条大橋を改修したとき、三条通を寺町通から橋まで延長させましたが、鴨川の河原を通る部分がぬかるまないように三条通をまっすぐに作ったそうです。このときに三条通と河原の高さにずれが生じてしまいました。     【帷子ノ辻(かたびらのつじ)】 嵐電の駅にもなっている地名なので京都市内出身の方なら読めるでしょう。 嵯峨天皇の皇后・壇林(だんりん)皇后の葬送の際に、棺を覆った帷子(かたびら)の衣が風で落ちた場所と伝わります。 この壇林皇后は京都を歩いているとたまにその足跡に登場する方です。京都で有名な皇后と言う意味ではこの壇林皇后と祇園祭の占出山、大船鉾、船鉾などの御神体になっている神功(じんぐう)皇后がとりわけ有名です。     【三条御池】 「三条御池」は地下鉄東西線の「太秦天神川駅」の前にある交差点です。 一般ルールからいえば三条通と御池通の交差点を表しています。 三条通りと御池通りとは、どちらも東西にのびる横の通りです。平行する道が交わるなんて普通はありえません。しかし実は三条通は、市内中心部をはなれた葛野大路三条から斜めに走り、この地点で御池通と交差してしまう様です。     【西院】 右京区の繁華街で、一般的に「さいいん」と呼ばれますが、正式な呼称は「さい」です。 西院は魔界との境とされた西京極の東隣に位置しており、つまり、三途の川の河原であると信じられていました。 親より先に死んだ子供たちが三途の川で積み上げるとされる石を“賽(さい)”と呼ぶことから、西院と呼ばれるようになったと伝えられています。     【「四条堀川」&「堀川四条」?】 縦の通りが前にきている交差点が多いなかと思われますが、四条通(横の通り)と堀川通(縦の通り)の交差点には「四条堀川」の標識だけかと思いきや。 「「四条堀川」と「堀川四条」(1箇所だけ)の標識がありました!! いったい、どっち? 他にも無いか確かめたい。    

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