#105 京都史跡シリーズ 【御土居の跡を歩く ③】

2018.12.01(土) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
4 時間 21
休憩時間
3
距離
12.1 km
のぼり / くだり
55 / 10 m

活動詳細

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#105 京都史跡シリーズ   【御土居の跡を歩く ③】 ウォーク距離 12.2 km   前回(10/14/2018, 11/10/2018)に引き続き、知人達との「御土居の跡を歩く」最終回です。 天候も最高16℃で快適に京都駅から北山大橋の開始点まで歩き回りました。 渉成園に御土居の址があるかなと・・・思い入園、拝観料500円でしたが立派な冊子を頂き、十三景を満喫しました。 印月池にある二つの島と回悼廊の築山が同じ高さで御土居であると言われている様です。 もう一つ残っている址として府立医大付属図書館の復元御土居がありました。 椹木町通、新烏丸通の初めての通りもありました。 寺町通りでは、主要なお寺を訪ねましたが御土居があったと思われる部分は、お寺のお墓や駐車場になっていると勝手にイメージしました。 三回にわたって42.5kmを突破しました。 北側から西側は御土居の址がよく残っていたが、南側から東側は、近代化に伴う開発によりあまり残っていないのは残念です。 終了後、ビール・ワインとイタリアンで乾杯!! 来年でももう一度復習しながら回ってみたいと思います。 京都駅[東]~七条通~間之町通~渉成園十三景~六条通~山内任天堂~高瀬川船回し場跡~河原町五条~河原町松原~京和菓子老舗幸福堂~河原町高辻~河原町仏光寺~四条河原町通~蛸薬師通り~河原町三条通~姉小路通り~河原町御池通~二条通~椹木町通~河原町丸太町通~新烏丸通~荒神口~護浄院~法成寺址~梨木神社~府立医大付属図書館の復元御土居~清浄華院~今出川通~大原口~阿闍梨餅を買って休憩~本満寺~佛陀寺~十念寺~阿弥陀寺~天寧寺~鞍馬口~上善寺~北大路通~北山大通~北山大橋~「IN THE GREEN」~烏丸線北山駅      本日の出発から帰宅までの歩数: 24,931 歩 歩行中の補給水分量  0.5リットル以上   【渉成園】 https://kyotofukoh.jp/report30.html 東本願寺の東に渉成園(しょうせいえん)がある。「枳殻邸(きこくてい)」、「東殿」、「東園」、「東本願寺下屋敷(新屋敷)」、「百間屋敷」とも呼ばれた。16000坪(52960㎡)の敷地を有している。国の特別名勝の庭園になる。 東本願寺別邸であり、飛地境内地になっている。 『渉成園は約1万6百坪の敷地を有し、大小二つの池と数棟の茶室に加え、園林堂(持仏堂)と書院群で構成されています. 〜 昔は、東側を流れる高瀬川から園の北東部に水路が引かれ、印月池と北側の小池に水が入れられていましたが、現在は琵琶湖疎水から分流させた「本願寺水道」の水を北側の小池に導入し、鑓水を使って印月池に、また井戸水を印月池北東部から取り入れています. 1827(文政10)年、渉成園を訪れた頼山陽は、「渉成園記」の中で園内の主な建物・景物を「十三景」として紹介し、その風雅を讃えています. 』 ( パンフレットより ) 御土居五条口周辺の地形図で見る変遷については、 http://kinseijin.dip.jp/map/odoi/odoi-gojo.html http://kinseijin.dip.jp/map/odoi/ 参照     【山内任天堂】 http://tokotokoto.com/?p=9204 ニンテンドー創業者の山内房治郎は、1889年(明治22年)9月23日に「京都市下京区正面通大橋西入ル」の地にあった空き家を買い取り、その地に「任天堂骨牌」を設立。自らの工芸家としての腕を活用し花札製造販売を始めました。当時の任天堂は一つの店舗に過ぎず「本社」ならぬ「本店」で直接花札を買うことが可能でした。ちなみに、なんで花札なのかと言えば、この辺りには1868年(慶応4年)から続く博徒一家(※現在は単なる指定暴力団)の事務所があったりするので、博打用の花札やトランプにそういうニーズが身近にあったのかと想像します。 山内は花札だけではなくトランプの製造も始め、これを旧知だった「明治の煙草王」こと村井吉兵衛の協力で日本専売公社と交渉しタバコ流通網での花札&トランプ販売を開始、山内が隠居する頃には日本一のカード会社となりました。そして2代目社長が「合名会社山内任天堂」と「株式会社丸福」を設立して現在の任天堂へとつながっていく基盤を確実なものにしていきました。そしてファミリーコンピュータの大ヒットで家庭用テレビゲーム機メーカーとしての地位を不動にしました。     【高瀬川船回し場跡】 https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=303 豊臣秀吉が天下統一の後、その権勢を誇るものとして「天下泰平」祈願の寺・方向寺(大仏殿)を建立した時、その資材(石材)を瀬戸内の島より諸大名に命じて、伏見港から京へ搬入するために、天正十四年(一五八六)、当時の豪商・角倉了以に命じて、御土居の外に沿って掘らせ、慶長一九年(一六一四)、現・一之舟入(二条)から伏見まで息子素庵と共に開通させた水路(運河)が高瀬川である。 その後、この高瀬川は、京に米・材木・薪炭・などの他、日常雑貨なども運び込む大切な通路として、大正九年(一九二〇)まで使われていた。 当時使われていた高瀬舟「舟兵(二文字を合わせて一字)」は、水深の浅い川に合わせた船底の浅い平らな舟で急流を荷を積んで乗り切れるように「高背」即ち船べりが高く造られていた。     【椹木町通】 京都市の東西の通りの一つで丸太町通の一筋北。烏丸通から西へ千本通まで。全区間中央線のない狭い通りである。 もともとは寺町通まで通じていたが、宝永5年に発生した宝永の大火により、現在の寺院および町家と御所の拡張が行われ閉塞することになった。     【新烏丸通】 南北の通りの一つ。北は荒神口通から南は二条通まで、河原町通と寺町通の間を走る。 延長ほぼ1km、市街地中心部の住宅、商店、手工業などの並んだ通りである。     【梨木神社】 https://ja.wikipedia.org/wiki/梨木神社 明治維新に大きく貢献した三條實萬・三條實美父子を祭神とする。境内の井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、京都三名水の一つとされ、現存するのはここだけである(梨木神社の「染井」と、京都御苑の「縣井」そして、堀川通五条西入るにある「左女牛井」、懸井は京都御苑の西北、宮内庁京都事務所の裏側に水が枯れ、現在は1996年に近くで掘り直し再生。)。また境内には約500株のハギが植えられており、別名萩の宮とも呼ばれており、9月中旬~下旬には萩祭りがおこなわれる。     【府立医大付属図書館の復元御土居】 御土居の痕跡を残すため、さつきつつじで象られたものが河原町通沿いに復元されています。     【IN THE GREEN】 https://www.inthegreen.jp/shop/ 植物園の壮大な緑を借景に陽の光がふりそそぐガーデンダイニング 薪窯で焼くナポリピッツァ、テラスで楽しむBBQが人気      【御土居の歴史】 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza257.pdf 天下人となった豊臣秀吉は、京都の町でいくつかの大規模な造営事業を行います。 天正14年(1586)に聚楽第、 天正16年(1588)には方広寺、 そして天正19年(1591)の御土居と続きます。 御土居の造営は天正19年(1591)に豊臣秀吉によって行われました。御土居は土塁と堀によって 京都の町を囲んだものです。その範囲は近世京都の中心部に留まらず、南は東寺、北は鷹ヶ峰、東は 鴨川、西は紙屋川に至り、延長距離は約 23km に達します。当時の記録よると、工事は天正19年の閏正月から始まり数ヶ月でほぼ終了するという突貫工事で行われたようです。 御土居造営の目的には諸説ありますが、鴨川・紙屋川の治水、外敵の侵入を防ぐ、洛中からの盗賊の逃亡を防ぐ、治安の維持などが挙げられます。 江戸時代になると、御土居は幕府の管理下に置かれ、近世都市京都を構成する重要な施設の一つとなります。御土居の名称は江戸時代になって定着したもので、豊臣期には主に「土居堀」と呼ばれていたのが、江戸時代になると次第に土塁の管理に重点が置かれ「御土居」へと名称が変化していったようです〔中村武生 1997〕。 しかし、明治時代になると民間への払い下げなどにより御土居の破壊が始まります。更にそれが本格化するのは大正8年(1919)の都市計画法の公布によるものです。これ以降、京都は近代的な都市への変化が進み、更に戦後の高度経済成長期などの開発によって御土居はほとんどが地上から姿を消してしまいます。 しかし、こうした状況に対して、大正6~8年に京都府によって現況記録が実施され、御土居の歴 史的重要性が注目されます〔西田直二郎・梅原末治 1920〕。この成果を受けて、昭和5年(1930)京都市内に残る8ヶ所の御土居が国の史跡に指定され、御土居の保全が図られました。更に昭和40 年には北野天満宮境内の御土居が史跡に追加指定されています   以上   明記のない資料は、「京都市考古資料館」提供の資料から転記しました。       

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