活動データ
タイム
09:40
距離
22.4km
のぼり
854m
くだり
842m
チェックポイント
活動詳細
すべて見るみなさま、あけましておめでとーございます!今年もどーぞよろしくお願いします( ´ ▽ ` )ノ 前日に2018年の山納めをしたところで、翌日には山初めです!今日は大好きな山登りと、大好きな歴史探訪と、初詣をコラボした贅沢な元旦SP企画です! JR長柄駅から山の辺の道を辿りながら、周辺の寺社仏閣や遺跡を巡り、さらに龍王山へ登り、さらにさらに初詣もしちゃいます☆ トータル何km歩くか見当もつかないですが、今年も自分らしくのんびり歩いてみようと思います(^-^)/ まずはJR桜井駅近くの駐車場に車を止めて電車移動。4つ先の長柄駅まで移動です。今回は長柄駅からスタート! まずは駅近くの大和(おおやまと)神社で早速初詣です(^^) 大和神社は式内社明神大、旧社格は官幣大社といいますから、相当社格の高い神社ですね。ご利益ありそー! 御祭神は日本大國魂大神、八千戈大神、御年大神です。 日本大國魂大神は倭大國魂大神と同一神です。倭大國魂大神は三輪山の大物主神と同一神だと考えられます。 大物主神は大国主命の幸霊・奇霊なので、これは同一神といっていいでしょう。八千戈大神は大国主命の別称なので、すなわち日本大國魂大神も八千戈大神も大国主命なんです。 ここでは大国主命を二柱に分けて祭祀しているんですね。 御年大神は素戔嗚尊の子供だし、大国主命は素戔嗚尊の子孫。素戔嗚尊ファミリーを祀ってるんですね(^^) 神社に行ったらぜひ御祭神を確認してみてください。その神社の性格というか、ポリシーみたいなものを感じることができますよ☆ 大和神社からそのまま東進し、R169を横断したら西山塚古墳が見えてきます。墳丘長113mの前方後円墳で築造は6世紀前半と推定されています。 ほとんどが前期古墳の大和古墳群において、唯一の後期古墳です。 後ほど西殿塚古墳のところで詳述しますが、私見ではこの古墳こそが手白香皇女陵だと考えます。 宮内庁は西殿塚古墳を手白香皇女陵と治定しているため、西山塚は宮内庁の管理から外れています。そのため私物化され荒れ放題なのが残念でなりません。 そのかわり墳丘の上に上がることができます。比較的標高の高いところに築造されているので、展望は抜群ですよ(^^) 西山塚古墳の南東の位置すぐ近くに西殿塚古墳があります。 墳丘長230m、大型の前方後円墳で築造は3世紀後半の、前期古墳の中でも比較的早い時期に築造された古墳です。 宮内庁はこの古墳を手白香皇女の衾田陵と治定していますが、そのようなことはあり得ません。 手白香皇女は仁賢大王の娘で継体大王の正妃になった人物です。没年は記述がありませんが、おそらく530年〜540年くらいでしょう。6世紀前半です。 そんな手白香皇女の陵墓が3世紀後半築造の西殿塚古墳であるはずがありません。 おそらく手白香皇女陵は西山塚古墳。西殿塚古墳は初期ヤマト王権の王墓だと考えるのが自然でしょう。もしかしたら初代王の墓かもしれません。 西殿塚古墳から山の辺の道を少しだけ歩いたらR169に向かいます。R169を横断し少し南進するとファミリーマートがあります。このファミリーマートの駐車場の奥からJR柳本駅に向かう途中に黒塚古墳があります。 全長130mの前方後円墳で、築造は4世紀初頭。前期古墳の中でも早い時期に築造された古墳です。 箸墓古墳や西殿塚古墳に続く時期ですので王墓ではありませんが、その埋葬状況や副葬品からみるとかなり高貴な人物の墓だと想像できますね。在地の有力者、邑の長的な人物の墓かもしれません。 古墳を含む周囲は公園として整備されていますし、墳丘に上ることもできます。上ってみると後円部に対して前方部の高さが低く平らなことがよくわかります。前方部が撥形に広がっていることといい、成立期の定形型前方後円墳の特徴をよく示しています。 ところでこの前方後円墳という特異な形状はどのように成立したのでしょうか? その原型は低い墳丘の周りに溝を掘った周溝墓だと考えられます。この周溝はのちに空壕や水を張った周濠に発展するのですが、墳丘で祭祀を行うためにこの濠に渡堤を掛けたんです。この渡堤を通って墳丘に上って祭祀を行ったんですね。その後、墳丘に上がらずに祭祀を行うために渡堤を広げたわけです。その内に渡堤は渡堤としての性格を弱め祭祀広場として発展し、濠から切り離された。そうして前方後円墳や前方後方墳の原型ができたんですね。 そう考えながら黒塚古墳の墳丘の前方部に上がり後円部を見上げてみると、まさにこの前方部が祭祀広場であったことを実感できます。 そしてこの黒塚古墳を全国的に有名にしたのが、三角縁神獣鏡です。石室内からなんと33面もの三角縁神獣鏡が出土したんです。 世間は色めき立ちました。これは卑弥呼の鏡ではないのか!?魏志の記述に、239年(魏の年号で景初3年)に魏の皇帝が卑弥呼に対し銅鏡100面を下賜したとあることから、この鏡が三角縁神獣鏡ではないかと考えられたのです。 しかし私見では三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡だとは考えていません。というか、卑弥呼の鏡であるはずがないと考えています。 卑弥呼が魏の皇帝から下賜された銅鏡は100面です。さらにこの鏡は卑弥呼から、邪馬台国を中心とする小国家連合の長へ下賜されたと考えられます。そんな家宝のような大切な鏡を何十面も大量に副葬するでしょうか?三角縁神獣鏡は葬送儀礼のために大量生産された祭祀鏡だと考える方が自然です。 さらに三角縁神獣鏡は、全国ですでに500面をはるかに超える数が出土しています。銅鏡100面とは数が違いすぎます。 まだあります。三角縁神獣鏡には銘文が入っているものがあります。製作年や製作者、縁起のいい言葉などを刻み込んでるんですね。その中に景初三年鏡と呼ばれるものがあります。製作年が景初三年である銘が入った鏡です。この景初三年は卑弥呼が鏡を下賜された年にあたるので、これをもって三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡であると主張するわけです。 ところが景初四年の銘の入った鏡も発見されています。ですが実は魏には景初四年がないんですよ!景初は三年までで、翌年は景初四年ではなく正始元年なんです。これはどういうことか?魏の鏡職人が間違えるなんて考えられません。これは三角縁神獣鏡が魏以外の場所で作られた、または魏の職人ではない者によって作られたといしか考えられない。 さらに決定的なのはこの三角縁神獣鏡、中国では1面も出ていないんです。1面どころか欠けらすら出ない。その鋳型も鋳型の破片すら全く出ない。魏でこの銅鏡を大量生産していたとすれば、中国で三角縁神獣鏡が出土するはずです。でも全く出ないんですね。これはどういうことか? 三角縁神獣鏡は中国には無いということです。魏鏡ではないとしか考えられません。 では三角縁神獣鏡は誰がどこで作ったのか? 中国の三国時代、魏に圧迫されて南部の呉から倭国に、大量に人が流入してきたんですね。この中にはいろんな職人が含まれていた。当然鏡職人も含まれていたはずです。この呉の鏡職人が日本で作ったのが三角縁神獣鏡ではないでしょうか?当時倭国には文字文化がなかったし、精巧な鏡作りの技術もなかった。倭国王は流入してきた呉の鏡職人に、祭祀用の魏鏡に似せた鏡の大量生産を依頼したのだと思います。 これが三角縁神獣鏡です。 祭祀用の大量生産品ですから。そんなに価値の高い物ではない。なので大量に副葬されているんですね。黒塚古墳でも家宝の鏡は棺の中、被葬者の頭のあたりに置かれた1面の画文帯神獣鏡でしょう。これは中国鏡です。後漢鏡だと考えられています。 では何のために鏡を大量に副葬するのでしょうか?それは僻邪のためだと考えられています。鏡は邪悪なものを反射する、跳ね返すと考えられていたんですね。なので被葬者を邪気から守るために鏡を大量に副葬した、そう考えられてきました。 ところが私気付いちゃったんです(^^) 被葬者を邪気から守るのなら鏡の鏡面(反射面)は棺の外側を向いていなければならない。ところが副葬されている鏡のほとんどが、鏡面を内側に向けて棺に立てかけられている。これはどういうことか? 埋葬されているのは王です。偉大な王は死して偉大な神となる。ですが偉大な神は偉大な祟り神でもあるんですね。この偉大な祟り神が墓から外に出て災いを起こさないように封じ込める。すなわち霊魂封じ込めのために、大量の僻邪の鏡を副葬したのでしょう。 古代において人知を超える大きな力は全て神の力です。死者を丁重に葬ることで、家や地域の安寧を願ったのでしょう。そんな思いが大きな墓を作る原動力になっていたのかもしれませんね。 黒塚古墳から東に進んでR169を渡ったところに行燈山古墳があります。 墳丘長242mの大型前方後円墳で4世紀前半の築造と推定され、宮内庁より崇神天皇の陵墓に治定されています。 崇神王は第10代の天皇として皇統に組み込まれていますが、そもそも古代の皇統譜に信頼性はほとんどなく、男系男子万世一系などということはありません。近代国家によって制定された皇統のあるべき姿を制度化したにすぎません。 ただ私見では崇神王の実在性はかなり高いと考えています。それとて天皇(そもそもこの時代に天皇という考え方はありません)としても、またミマキイリヒコイニエという人が実在したということでもなく、後にハツクニシラスと呼ばれた初期ヤマト王権の初代王が確かにそこにはいた、という意味での実在性です。 特に初期ヤマト王権においては複数の氏族が合議によって国家運営を行い、王はそれぞれの氏族から持ち回りで共立されていたと考えられます。そこには血縁関係すらほとんどありません。 王権を構成していた氏族は大和古墳群を作った氏族、柳本古墳群を作った氏族、箸中古墳群を作った氏族、そしてもしかすると鳥見山古墳群を作った氏族もそこに入っていたかもしれません。 白石太一郎氏によると、初期ヤマト王権王墓の築造順は、箸墓(箸中)→西殿塚(大和)→桜井茶臼山(鳥見山)→メスリ山(鳥見山)→行燈山(柳本)→渋谷向山(柳本)、となります。 カッコ内を見ていただければわかる通り、初期ヤマト王権においては各氏族が1代〜2代の王を持ち回りで順番に輩出しているのです。もちろん血縁関係はありません。合議による共立です。万世一系など微塵もありません。 おそらく後の世で崇神王に当てはめられた初期ヤマト王権の初代王は確かに存在し、その墓は私見では西殿塚古墳ではないかと考えています。 他の墓が磯城の地域にある中、鳥見山古墳群だけは磐余の地域にあたる上、古墳の形状に違いが見えるところから、桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳を王墓とするかどうかは意見の分かれるところですが、行燈山古墳は初代王の次の世代の王の墓と考えて間違いはなさそうです。 皇統について少し考えてみます。 先述した通り初期ヤマト王権における王統については、一系継承ではありませんし、血縁関係すらほぼ考えられない。 王統が一つの血族によって継承されるようになったのは、王家が河内に進出した5世紀頃だと思います。しかしそれとて万世一系ではありません。王統は何度か断絶の危機にさらされている。血族継承といっても現在のような父子継承ではなく、兄弟間継承が基本であったし、女系継承もあった。飛鳥時代から奈良時代においては女帝も数多く即位していることから考えると、古代の王統は現代の皇統のイメージとはかなりかけ離れたものだったと考えるべきでしょう。 西山塚古墳の被葬者と考えられる手白香皇女も、王統断絶の危機に現れたキーパーソンですね。 雄略大王が亡くなった後、王統は断絶し王権は空白期間に入った。混乱する大和と倭国を立て直すために白羽の矢が立てられたのは近江の貴族、男大迹王(後の継体大王)です。彼は近江を基盤とするいわば田舎貴族だったのですが、越(北陸)や近江、尾張、さらには淀川水系と広い範囲に影響力を持ち、独自に半島と交流を持つなど、その経営手腕を買われて大和の豪族たちに共立されました。 そして大和に入った継体大王を前王統と繫ぎ止める役割を果たしたのが手白香皇女だったんです。 手白香皇女は前王統の娘であったので、継体の正妃となりその子供に王位を継承すれば、女系ではありますがなんとか王統は保たれる…手白香皇女は王統断絶の危機を救った救世主だったのかもしれませんね。 行燈山古墳の少し北側に東海自然歩道トレイルセンターがあります。さらにその少し東側に長岳寺があるので立ち寄ってみました。 スイマセン、長岳寺は平安時代の開基なのであまり興味がわきません、ゴメンナサイm(_ _)m ですが、とても静かでいいところでしたよ(^^)心落ち着かせてゆっくりお参りさせていただきました☆ 長岳寺の北側に龍王山長岳寺コースの登山口があります。ようやく山登り!(^-^)/ 登山口から10分ほどは舗装路をダラダラ上って行きます。山に入ると断続的に急な箇所はあるものの、階段など整備がよく行き届いているので、難しいコースではありません。道中展望はほとんどありません。 山頂まで2.4km、1時間とのことでしたが、下から見上げていたイメージよりも距離感が長く感じて少し疲労感がありました。まあ、前日に室生の山々を9km、ここまですでに7kmくらい歩いてますから仕方ないですね(-_-) ほぼ予定通りのおよそ1時間で龍王山山頂に到着*\(^o^)/* 広々とした山頂広場は西側のみの展望ですが、この展望が素晴らしかった! 奈良盆地を見下ろす山にはいくつか上ったことがありますが、どの山よりも龍王山からの景色が最高に素晴らしい!奈良盆地が北から南まで全て見渡せる。遠くには北から順番に生駒山、信貴山、二上山、葛城山、金剛山がキレイに見渡せますし、大和三山も見下ろせる。大和三山に囲まれた中央付近には藤原宮跡の広大な敷地も確認できます。眼下には初期ヤマト王権の大型前方後円墳がズラリ勢揃い!大和川の遥か遠方には大阪か神戸のビル群がかすかに見えます。条件がよければ明石海峡大橋も見えるそうですよ! 最高の景色を眺めながらゆっくり休憩したら、下山は崇神ルートを選択です。 崇神ルートは急坂続き。少し荒れ気味ですね。およそ50分ほどで行燈山古墳の東側に下山です。 さあ、少し時間が押しているので先を急ぎましょう! 山の辺の道を南に少し進むと、圧倒されるような巨大な古墳が目に入ってきます。渋谷向山古墳です。 渋谷向山古墳のすぐ北側に上の山古墳があるので、少し立ち寄ってみます。 全長144mの前方後円墳で、4世紀後半の築造と推定されています。渋谷向山古墳の陪塚的存在なんでしょうか? 渋谷向山古墳は墳丘長300mの前方後円墳で、全国でも8番目の規模を持つ巨大古墳です。4世紀後半の築造と推定されています。 宮内庁から第12代景行天皇の陵墓とされていますが、私見では景行天皇の実在性はかなり怪しい。ですが初期ヤマト王権の王墓であることは間違いなく、規模的にみてもかなりの権力者だったことが想像できます。 この後王墓は佐紀に移り、その後河内に進出するわけですから、何か時代の転換期に現れた偉大な王の墓なのかもしれませんね(^^) 渋谷向山古墳を後にして山の辺の道をしばらく歩くと、路傍に額田王の歌碑がありました。 「味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の 隠さふべしや」 三輪の山を 美しい奈良の山々の間に 隠れてしまうまで何度でも 道の曲がり角ごとにしみじみと 振り返って見て行こうと思っているこの山を 心なくも雲よどうか隠さないでいて 額田王が天智大王の時代、都が大和から近江に遷される途上に、大和の守護山三輪山に別れを告げるために詠んだ歌です。 額田王は大海人皇子(後の天武天皇)の妃だったのですが、その後天智天皇(中大兄皇子=大海人の兄)に寵愛され、大海人と引き裂かれ天智の元に入ったという説があります。確証はありませんが… そんな額田王が大海人に対して詠んだ歌があります。 天智天皇が蒲生野に狩に出かけた時に、額田王や大海人皇子も同行していたのですね。その時に詠んだ歌がステキなんですよ(^^) 「茜さす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る」 茜色に輝く紫野を 標野を行き来しているあなた 野守は見ていないでしょうか あなたがそんなに袖を振っているのを 標野というのは一般人が立ち入れない禁野です。天皇の猟場ですね。野守というのは標野の管理人。袖を振るというのは求愛の仕草です。 大海人とは別れることになったがまだ愛情が残っている額田王。天智天皇の狩の場で久しぶりに再会した二人。遠くから袖を振って愛を伝えてくる大海人に対し、野守に見つかってはまずいと思いながらも、嬉しさを隠しきれない額田王。恋する女性のいじらしい素直な気持ちが表現されたステキな歌ですねー(≧∇≦) さらに山の辺の道を進むと、神籬遺跡があります。 小さな石の遺跡なんですが、古代史を勉強している者にとっては非常に興味深い遺跡です。 『日本書紀』の崇神紀崇神6年条に、天照大神を豊鍬入姫命に託し笠縫邑に祀らせた。その際に磯堅城の神籬を立てた、という記述があります。 このあたり一帯が纏向遺跡に含まれ、笠縫邑にもほど近いところから注目されている遺跡です。 もしここで豊鍬入姫が天照を祀っていたとしたら…?そう考えただけでワクワクしますね(^^) 桧原神社の西側、井寺池までやってきました。ここには古代の歌人の歌碑がたくさんあるので、少し見て回りましょう。 池の西側には箸墓古墳が見えています。ルートの都合上近くまでは行きませんが、せっかくなので少し箸墓古墳について考えます。 箸墓古墳は墳丘長278mの前方後円墳で、3世紀後半の築造と推定され、前期古墳の中でも最も古い時期の古墳だと考えられています。 宮内庁はこの古墳を孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の陵墓と治定しています。 この古墳を卑弥呼の墓と考える説もありますが、私の考えはちょっと違います。ただこの墓が巫女的性格を持つ女性の墓だと伝えられていることは、この古墳を考えるにあたって非常に重要なファクターであることは間違いありません。 卑弥呼が亡くなったのは248年頃と思われます。その後、男性王が立ったが国はうまく治らず戦乱が起こったと魏志には記されています。 古代、政(まつり)と祀(まつり)と祭(まつり)は、全て同じように考えられていました。神祀りも実務としての政治も豊穣のための祭りも、国を治めるために必要な同じ「まつり」なんですね。 そして卑弥呼は強烈なカリスマ性を持って祀(まつり)で国を治めた巫女的女王です。祀が安定しているからこそ政もうまくいくのです。 その後男王が立ったが国はうまく治らなかった。おそらく祀が不安定だったため、政もうまくいかなかったのでしょう。 そこで大和の豪族層が考えたことは、もう一度カリスマ性を持った巫女的女王を共立することでした。こうして王位に就いたのが、卑弥呼の宗女(親戚の女性)、台与です。そして再び国は安定を取り戻しました。 しかし未来への不安は残ります。台与がいなくなっても安定的に国を治めていく新しい政治的秩序を構築しなければならない、そう考えたわけです。 そこで考え出されたのが祭祀の統一です。各地域国家がそれぞれで行なっていた祭祀を共有することで、政治的秩序を構築しようとしたのです。それが墓制の統一です。 そして各地域国家の特徴的な墓制を持ち寄って、新しい定形化した墓制を作り上げた。具体的には近畿の方形周溝墓を母体に、山陰・北陸の四隅突出型墳丘墓に見られる葺石や貼石、吉備の特殊器台に特殊壺、九州の副葬品を持ち寄り新しい墓制を確立しました。 こうして確立した新しい墓は、台与が亡くなった時に初めて作られたのです。これが初めて作られた定形型前方後円墳である箸墓古墳ではないでしょうか? そう、私は箸墓古墳は台与の墓だと考えています。箸墓古墳の築造が280年〜290年±20年と考えると、卑弥呼の墓としては時代が合わない。台与の墓と考えるべきでしょう。 邪馬台国を中心とした小国家連合である倭国が、初期ヤマト王権による倭国連合と連続的に繋がっているとすれば、箸墓古墳の築造をもって初期ヤマト王権の成立と考えるべきです。 そしてこの箸墓古墳を築造した王こそが、初期ヤマト王権の初代王…すなわち後に崇神と呼ばれたハツクニシラス王であったと思うのです。 箸墓古墳は新しい日本のスタートを飾る大切なモニュメントとして、各地域国家がその力を持ち寄って作り上げたのだと思います。 さあ歌碑を巡りましょう! まずは倭建命の歌です。倭建命は景行天皇の皇子で、各地のまつろわぬ者どもを服従させた、古代の英雄ですね。実在の人物ではありません。神話の中の英雄です。 この倭建命が九州を平定し、その後東国を平定した。そして伊吹山の荒ぶる神を退治しに行くのですが、その時に山の神の毒気にやられて瀕死の状態に陥ってしまうんですよ。 YAMAPユーザーのみなさんならご存知の方も多いと思いますが、伊吹山で山頂にたどり着いた時に、正面の社に白い猪が祀ってあるんですが、あの白い猪が倭建命を死に追いやった荒ぶる神です。 瀕死の倭建命は大和に戻ろうとするのですが、その途中で息絶えてしまいました。その死の直前に遠くに大和の山々を望みながら最後に詠んだ歌がこの歌なんですね。 「倭は 国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 倭しうるはし」 大和は国々の中でも格別に優れた国 幾重にも重なる青々と木々の茂った山々 その山々に囲まれた大和は本当に美しい国だ 故郷に対する郷愁が溢れるいい歌ですね。 続いて天智天皇の歌です。こちらは打って変わって少しユーモラスな感じさえ受ける、人の情を歌った歌です。 「香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき」 香具山は畝傍山を愛しく思って耳成山と争ったという 神代からこうであるらしい 昔もこんな具合だったからこそ現在の人も愛しい人をめぐり争うのだよ 現代にも通じる歌ですね(^^) 井寺池から桧原神社はすぐ近くです。 この桧原神社は笠縫邑の伝承地で、豊鍬入姫命が天照大神を祀った場所ですね。天照大神が伊勢に遷座した後も、天照大神を祀り続けています。合わせてその父母である伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀っています。 少し日も傾いてきました。さらに山の辺の道を歩いて狭井神社に向かいます。 狭井神社は大神神社の摂社で主祭神は大神荒魂神。つまり大物主神の荒魂ということなので、大国主命のことでしょう。そして配祀神として大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命(大物主神の娘)、勢夜陀多良比売命(大物主神の妻)、事代主神(大国主命の子)が祀られています。まるで大国主命、大物主神オールスターズみたいです(^^) これもYAMAPユーザーの方ならご存知の方も多いと思いますが、この狭井神社で受付をすればここから三輪山に登拝ができます。ただ登山ではなくあくまでも登拝ですから、飲食も禁じられていますし、写真の撮影も基本的には禁止です。 さてようやく今日のメイン初詣である大神神社へ向かいます。 狭井神社からすぐなんですが、大神神社の参拝順路が一方通行になっているために最短距離ではお参りできません!(>_<) 一旦帰路の人の流れに乗って三輪駅方面へ戻った後、正面の参拝道から大神神社へ進んでいきます。 ところが!元日の大神神社、とんでもない混雑です。ロープを張って参拝規制を行なっているために、少し進んで立ち止まる、少し進んで立ち止まるの繰り返し。大きなザックを背負っててゴメンナサイ!って感じです。 ようやく参拝できたのは列に並んでから30分後。ゆっくりじっくりお参りしたら、順路に沿って先ほど一度通った帰路に入ります。 再び参拝道に戻ったら、参拝道を横断通過し喧騒の大神神社を離れて平等寺に向かいます。 先ほどの大混雑が嘘のように、平等寺は静かに佇んでいました。 開基は諸説ありますが、大神神社の神宮寺であったと伝えられます。明治の廃仏毀釈によって堂宇は破壊されましたが、昭和になってから再興されたとのことです。 心静かにお参りをして、さらに山の辺の道を金屋に向けて歩きます。 山の辺の道を少し外れたところに崇神王の磯城瑞籬宮伝承地の碑がありました。 この場所は箸中古墳群に近いです。崇神王がハツクニシラス王でありその墓が西殿塚古墳だとすると、大和古墳群近くに宮があるのが自然だと思うのですが…あくまでも伝承地ですし、当時の宮がどのように営まれていたのかも未解ですから気にしないことにしましょう(^^) 山の辺の道を少し進むと道沿いに庫裏があって、その中に二体の石仏があります。金屋の石仏と呼ばれるものです。 鎌倉時代に作られた石仏で、釈迦如来と弥勒如来とのことです。元は平等寺にあったらしいですが、廃仏毀釈により破壊されそうになったところを村人が救い出し、守り続けているのだそうです。 そしてこの金屋付近は古代、市が置かれていました。西の軽市に対する東の海柘榴市がこの辺りであったようです。 横大路と山の辺の道の交点にあたり、すぐ近くを大和川が流れていることから、河内からの終着点、東国への出発点として、交通の要衝でありました。 市は物の売り買いだけではなく、人と文化の交流地点でもありました。歌垣が行われたり、外国からの要人を饗応したりもしたようですね。 おそらく大いに賑わっていたことでしょう(^^) 海柘榴市を過ぎ大和川にたどり着くと、仏教伝来の地の石碑がありました。 欽明大王の代に百済から仏教が伝わったとされていますが、欽明大王の磯城島金刺宮がこの辺りだったことから、ここに石碑が立てられたのでしょうね。 ちなみに欽明大王は継体大王と手白香皇女の子にあたります。手白香皇女がかろうじて繋いだ王統の申し子ですね。 また欽明即位に貢献した蘇我稲目が大躍進し、その後の蘇我氏の繁栄の基礎を築いたのもこの頃です。 時代は確実に動いています。この後、時代は飛鳥の世に移っていくのです。 日も暮れてすっかり辺りは夜の様相です。 あとは桜井駅近くまで歩いて、今日の予定は全て終了です(^^) 9時間43分、22.1kmは2019年の幕開けにふさわしい、自分らしさかなと思ったりしています。とにかく一箇所、一箇所が興味深くて、時間がかかってしまいました。でもホントに楽しかったですね。 さあ2019年です。 もう苦しいことも辛い思いも懲り懲りです。今年は何もない年にしたいですね。 とにかく穏やかな日々を、普通に当たり前に過ごしたいです。 しっかり山も登っていきます。 相変わらず長文ダラダラで頑張っていきますので、皆さま、今後ともどうぞよろしくお願いしますm(_ _)m
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