加久見城跡

2019.02.09(土) 日帰り

活動データ

タイム

00:44

距離

831m

のぼり

63m

くだり

64m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
44
休憩時間
0
距離
831 m
のぼり / くだり
63 / 64 m
44

活動詳細

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応仁2年(1468年)土佐に下向した前関白一條教房に嫁ぎ次男一條房家(土佐一條氏初代)の生母となった中納言局は、加久見土佐守宗孝の娘。宗孝は教房の推挙によって土佐守に任命される。 天正2年(1574年)一條兼定が三家老(羽生・為松・安並)によって豊後へ追われ、加久見左衛門宗清(三崎左衛門)は大岐城主大岐左京進らと兵を挙げ一條氏の老臣を討伐。しかし、翌天正3年には長宗我部元親の軍勢が幡多へ侵攻し、一條氏は滅亡、加久見氏も長宗我部氏に降る。 加久見左衛門は三崎城主で三崎左衛門とも称し、文禄2年(1593年)朝鮮で討死(病没とも)し、長宗我部氏滅亡後の加久見氏の動向は不明。 加久見五輪塔群の案内板にある系図を参照すると、加久見氏は加久見入道、加久見土佐守宗孝、加久見宗勝、加久見宗頼、加久見因幡守、(三崎)加久見宗清と続く。

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