活動データ
タイム
12:07
距離
32.8km
のぼり
3349m
くだり
3374m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る金曜日は少し早めに仕事を上がることが出来ました。 これなら前入りでちょっと足を延ばせるな~、ドコ行こう?そうだ久しぶりに四国へ渡ろう!。お遍路で通っていた四国も久し振りですし、四国のお山は登った事がありませんでした。ラウンド縦走路を検討した結果、東之川から入山し、台ヶ森~瓶ヶ森~伊吹山~石鎚山と、時計回りの山行に決定。 お遍路で幾度となく利用した国道九四フェリーに乗り込みます。 今回は山行目的ですが、懐かしさが込みあげてきます。あの頃の僕は人生に惑っていました。家庭を持つこと、経営者となること、ある意味他人の人生に対して大きな責任を負うことへ強いプレッシャーを感じていました。その解決策に、とは大袈裟ですが自分を見つめ直したいという気持ちから始まったお遍路でした。いや、正直に言えば逃避だったのかな。 少ない休みをやり繰りして四国へ渡りました。 札所では作法に則り参拝するわけですが、回を重ねるごとにある変化が自分の中で起こります。最初はお参りする時に、家内安全だの商売繁盛だのと様々な「お願い」をしていました。また初めのうちは自分の白衣姿も気恥ずかしく、般若心経の読経も蚊の泣くような声で細々と詠んでいましたが、そのうち慣れてきます。慣れてくると、心経の一文字づつが心の中でだんだんと大きくなってきました。 札所をまわるごとに、思い浮かぶ人の顔も変わってきました。 最初は家族、次に亡くなった祖父母、それから親族、友人知人、過去に出会い別れた人々、それからご先祖様、そして生まれてから今までの自分自身の顔…。そんな顔々に心経の文字やご本尊の尊顔が重なっていきます。そうか、これがお遍路なんだと感じ始めました。 お遍路は札所でお参りをする手順が一緒で、これを一日に何度も繰り返します。またお遍路は、次なる札所への移動また移動の繰り返しでもあります。この「繰り返し」と「移動」は僕にとって色々な効用がありました。 まず繰り返すことで、シンプルになるというか、思考の無駄がどんどん削げ落ちる感覚があります。手を合わせて考えることが、どんどんシンプルになってゆくのです。「願い」とか「祈り」とか言っても、自分の中の欲求や欲望が形を変えたものだったりします。ところが「繰り返す」と、この欲求みたいなものが、何だか削り取られていってその内側にある感情や感覚が出てくる。自分にとって最も大切なものは何か、そんな核を取り出すような感じかな。これは不思議な感覚でした。 ところが、「移動」は逆。「祈りの繰り返し」が感情の核に迫る感覚とするなら、移動中はその核から感覚、または思考が展開する時間だったりします。例えば、運転中の視覚情報が凄くたくさん入ってくる。つまり、何でも気づいてしまう。(あ、2台先のあの車、多分ここで左折するな)なんて分かっちゃう。 無意識のうちに、車の挙動と運転手の視線の動きなどからそうと判断するのだろうけど、とにかく何でも見えてる感じになる。また同時に、思考が色々とめぐる。あれやこれや、とにかく色々と考える。考えた事がどんどん勝手に展開していって、思いもよらない事を考えていたりして…。一種の躁状態なのかもしれませんが。 まあともかく、約3年をかけて一巡した最後の札所で言われた言葉にある気付きを得ました。八十七箇所を埋めた納経帳を出し、「実はここが最後の札所なのです」と幾分誇らしげに言いました。そこで朱印を押されている時に一言こう言われたのです。「それで結願できましたか?」と。 う~ん、そもそも結願、つまり煩悩が無くなり願いが結ばれるって事があるのかなぁ。スーナカチャンネーの事を筆頭に、僕はどうにも煩悩が多すぎるようです(笑)。さておき、僕に限らず、人間は煩悩を持つがゆえに人間なのではあるまいか、と思い至りました(けして自己弁明ではありませぬw)。神仏を理想とし、苦しみから逃れようと或いは理想へ近づこうと努力する事は、人のみが行い得る姿なのではないかと。 若かりし頃、チャンネーにモテたくてどうしようもなくて、様々に行った企画立案が今の僕の仕事力のベースになってたりすると思うのです。モテたいから努力する。神は努力をしません、完璧だから。努力や試行錯誤や苦しみこそが、その人のパーソナリティを生み出す。悩みが無いんですぅワタシ~、なんてチャンネーには魅力が無い!より良くあろう、幸せになりたいとモガいてる姿こそが人としての愛おしさなのよ。 ん?論法が強引ですか?いいんです、酔ってるから。今日は山から話がココまでそれまくってますが、いいのです。酔ってるから。あ、繰り返しちゃった。 え~と、何の話だったっけ? ともかく、僕はそうしてお遍路の二巡目に突入したのでした。久しぶりに四国へ渡って思ったことは、お遍路もヤマも僕にとって一緒だったんだな、と。山頂という目標をもって臨みながらも、ピークを踏めばまた次の山行に思いを馳せる。ピークは目標であって、目的じゃないという事なんだなあ。実は、山を登る、という行為の中に答えがあったんだな。あたまが空っぽになって、こころが一杯になる。それが僕を山に向かわせる理由の一つなんだ。 僕の人生は、結果にあるんじゃない。 それは生きる過程のなか、「いまここ」にあるんだ。死んでどれだけ名を残そうとも、葬式に何人の参列者がいようとも、関係ないね。まあそんな当たり前のことを今更ながら想った今回なのでしたよ。 あ、山の話も書いとこう。 石鎚東稜ルートは凄く楽しいです!東稜基部(第3ベンチ)でお二人のご婦人と会いました。多分60歳は超えているであろう方から、「あんちゃん、これからドコ行くの?」と伊予弁(たぶん)で話しかけられました。えと、東稜ルートで山頂まで行くつもりです、と返答したら破顔一笑、「私等もこれからその道で行くんよ!」とのこと。 ええ!? 結構厳しいルートのはずだよな~。「あんちゃん若いから、先に行って」と促され、登り始めると急登も急登、彼女たちは大丈夫か?と心配するも、後方からは笑い声が遠く聞こえてくる。いいな。うん、いい。彼女たちの、あの笑顔に僕は力を頂いた。 これから10年後、僕はもしかしたら山を登れていないかもしれない。 けどきっと大事なのは、その日を笑って過ごしていることなのだ。「おれもその道をこれから行くんだよ」と言いながら。
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