猿倉登山口→白馬岳→朝日岳→白鳥岳→親不知海岸

2012.08.11(土) 5 DAYS

活動詳細

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白馬岳から栂海新道を抜け日本海へ 2012年 夏 今年の夏休みには何処の山へ登ろう? 登りたい山なら簡単に決まる。 それは北海道の大雪山、トムラウシである。 行けばいいじゃん!と言われるかもしれないが、この時期の交通費を考えるとやはり行けない。 そんな中、ふと北アルプスの基点とも言われている親不知の事を思い出した。 何年も前から頭の片隅に憧れの登山ルートとして思い続けていた。 早速ウェブサイトから幾つかの情報を入手した。 このコースなら時間的に可能だと言うことが分かり今回の山行ルートにした。 娘の美紀子も付き合うということになり、今回は新しい二人用天幕を買い求めた。 今までのは、昨年の剱岳登山の折、ポールが風の影響で曲がってしまった。 別に使えないことも無いが、今のは比較にならないくらいに軽量化されている。 お盆休みに入る四ヶ月以上も前から身体作りの為、月三~四回は丹沢の大倉尾根から塔の岳までの標高差1200m余りを登ってきた。 八月十五日、戸塚駅始発に青春18切符で乗り込む。 中央線の車窓からは八ヶ岳、南アルプス、そして北アルプスが見渡せた。 松本駅で大糸線に乗り換え白馬駅で下車、駅前からバスで一路、猿倉へと向かった。 ここは白馬岳への登山口である。 私たちはここから雪渓手前の白馬尻まで足を進めた。 白馬の名の由来は何でも春に白馬岳の山肌に雪が溶け始めると雪の白い馬の形が現れる事からこの名前がついたと言われている。昔の人はこの馬形を合図に代掻きをしたそうだ。 ここ白馬尻小屋は雪渓の入り口ということだけあって小屋の前の天幕場は夏の盛りだと言うのに雪渓からの吹き降ろし風が冷たく自然のエアコンというより冷蔵庫の中にいるようでダウンやフリースを羽織らなくてはいられない位であった。 翌朝六時半に天幕を撤収して、沢にいるニホンカモシカを見ながら雪渓に入る。 娘は六本爪のアイゼンを付け、私はチェーンアイゼンを付けた。 ストックを使い高度をグイグイ上げ、岩場に入ると白や黄色や紫の色のイワオウギ、ムカゴトラノヲ、ミヤマキンポウゲ、タカネナデヒコ、ミヤマトリカブト、が競うように咲いていた。 そして振り返ると雲の上に出ていた。 白馬頂上小屋に着いたのが十一時二十分、ここに天幕を張る予定であったが、時間が早かったので雪倉岳避難小屋へ向かった。 白馬山荘を抜け山頂へ。残念なことに丁度ガスっていて下界は見て取れなかった。 ガスも晴れ雪倉岳への登山道はなんとも贅沢な広々としたアップダウンの少ない稜線で岩の白に這松の緑、青い空には真っ白な夏雲が湧いていた。 途中岩場に張り付くように紫色のイブキジャコウソウの花が咲いていた。 私は娘にこの花はジャコウの匂いがするらしいと伝え、娘は重いザックを背負ったまま腹這いになり匂いを嗅いだが匂わないと言った。 後で聞いた話だが、葉を揉むと香りがするらしい。 前に知っていれば香りを嗅ぐことが出来たのに。 何処を歩いても花、花、花、、白馬岳の人気のほどが分かる様だ。 そして四時少し前に雪倉岳避難小屋に着いた。 先客が一人いてこの日は私たちと三人で過ごした。 翌朝、外が明るくなるのを待ち五時前に出発した。 この日は私にとって二つの初めてがあった。 一つは、雷鳥の鳴き声とミヤマサンショウオの群生だった。 今日の宿泊地は予定では朝日小屋天場であったが、前日雪倉避難小屋まで来たので、まっすぐ朝日岳へ直登してアヤメ平か黒岩平の水場あたりで天幕を張る予定に変えた。 しかし、今日は出発して間もないのに二度もこけたので娘に無理せず朝日小屋にした方が良いと諭された。(老いたら子に従え)の心境であった。 そして朝日小屋に着き天場の申し込み用紙に雪倉→栂海と記入した。 小屋の女主人(五〇才前位)に「白馬周辺の避難小屋は本当に避難目的でしか使用してはいけない!ましてやお子さんにその様な登山を教えるなんて論外です。」と何度も何度も言葉を変え、散々叱られてしまった。 まだ一張りも無い天場にも時間の経過とともに幾つものテントの花が咲いてきた。 隣に張った五十四歳の単独行の彼は新穂高温泉から笠ヶ岳、三俣蓮華、鷲羽、烏帽子、針ノ木、後立山から十日でここへと来たといっていた。 途中、通り過ぎた冷池山荘から少し離れた天場で前日に熊に襲われた人がいたと言っていた。 幸い怪我は無く無事逃げたようであったが天幕が爪で中まで破られていたそうだ。 その話を聞きこれから行く栂海新道は熊が現れてもおかしく無いようなところで今回い初めて熊鈴を持ってきたくらいなので、ここ朝日小屋を今日の宿にしたことに胸を撫で下ろした。 彼は長き山行で終に食料が切れ小屋でカップメンを買い求めた際に、女主人にやはり食料確保について叱られたようだった。 昼寝をしたり夕日が沈むのを眺めたりと余りある時間をのんびりと過ごした。 翌朝四時十分未だ暗いうちにヘッドランプを点灯して朝日岳へ登り始めた。 頂上には私たちより前に出発した高校山岳部の一行他何人かが既に登頂していた。 そんな中、六十七歳の男性が私に行く先を尋ねてきた。 「私も栂海新道を抜け親不知まで行こうと、食料を沢山持ってきたのに、山小屋の人に(女主人)貴方では無理ですから来た道を蓮華温泉まで戻りなさいと言われました。」と悔しそうに、また寂しそうに私に話してくれた。 ここにも山小屋の女主人の餌食になった人がいた。 自分よりも可哀相な人だ!私は怒られただけで済んだので良いが、彼は自分の行動を規制されてしまったのだ。 ほとんどの人が蓮華温泉へ下ってゆく中、私たちは栂海新道へと入った。 ザックの後ろに熊鈴をぶら下げ。 ついに憧れの北アルプスから日本海へのルートに来たのだ。 あの日本山岳史に燦然と輝いているウエストンが親不知を訪れた際に「ここが北アルプスの基点である。」と言った、この尾根を地元の(さわがに山岳会)が十年の歳月を費やして一九七一年に完成させた。まさに夢の縦走路である。 ゆっくりと下る登山道を気持ちよく早足で歩いた。 足元にはハクサンコザクラやニッコウキスゲの花々が咲き乱れていた。 夜の帳に落ちた雲が朝日とともにまたその姿を現し風に乗り山肌を撫で下ろしてゆく、まるで川が流れるように。 木道を抜け黒岩岳、さわがに山、犬ヶ岳への登りに差し掛かった頃、浮かれてスピードを上げたせいか?左膝関節の後ろ辺りの筋に違和感を感じてきたので今日はここ栂海山荘までとした。 未だ十二時頃だと言うのに残念だが明日の事を考えると無理をしないこととした。 ラーメンを食べ、昼寝をしてから一時間半ほど経った頃二人のパーティーが入ってきた。 ここは携帯が繋がっているようで、女性の人が父親らしき人と話していた。 「もしかしたら下山が遅くなり電車で明日までに帰れないかもしれないので、明日電話をするから迎えに来て!」と言う内容であった。 その後、彼らと話したが山の合コンで出会い今回が彼女の初めての縦走登山だと言うことを聞いた。 彼女の実家は我が家と目と鼻の先で港南台である。 父親は何処まで迎えに来るのだろうか?余りにも自分からみると甘えすぎている。朝早く発てば問題は無いのに? 次の日、私たちが発つときには彼らは未だ寝袋の中だった。 三時四十分、空には星が降るように輝き、まるで星座表を見ているように一つ一つ星座の型がはっきりと手に取るように分かった。縦走最後の今日も天気の心配などまったくないほどの朝を迎え栂海山荘を後にした。 テーピングをした左足が思うように上がらず、何度も何度も尻餅をついた。 思うように足が前に進まなく、痛みを感じるようになってきた。 そうこうしているうちに娘からお叱りの一言があった。 「お父さんは、もう年寄りなのだから自分の歳と体力に見合った山行計画を立てなければいけない!」今回の旅で二度目の心にずっしりと答えた言葉である。 幾つもの峰を登り返したる茫茫たる山並みの向こうに海が見えた。 日本海だ!また幾つもの登りを喘ぎながら、膝を庇うように登り、そして降り ついに日本海の海岸に辿り着いた。十四時三十分 海岸から新潟の知り合いが親不知まで迎えに来てくれるので携帯から連絡を入れる。 「今、終に親不知に着ました。」 「もうすぐ着くので、親不知ホテルの前で待つように」との事。 最後の気力を振り絞り何度も何度も立ち止まっては、息を整え、手すりにつかまり今しがた降りてきた階段をホテルまで登った。 スライドショー https://1drv.ms/v/s!AqKkVj_ptxM3cnK3W9s5ygYFxYA

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