二〇三高地

2016.07.15(金) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
26
休憩時間
8
距離
716 m
のぼり / くだり
37 / 92 m
27

活動詳細

すべて見る

二〇三高地は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順にある丘陵であり、説明するまでもなく、日露戦争の激戦地となった場所です。 近年まで軍事施設に含まれており、長年、外国人の立ち入りは禁じられていましたが、1990年頃から開放されています。 頂上まではマイクロバスで行くことができますが(有料)、歩いてもものの15分程度。舗装されているので、難なく登ることができます。 頂上にはこの戦いで我が子を二人も失った陸軍大将 乃木希典が当て字で爾霊山(にれいさん=お前達の眠る山)と詠んだ碑があり、旅順港が良く見えます。日本軍が占領してから、真っ先にここに観測点を作ったと言いますから、旅順港を一望できるこの丘陵の軍事的な意義が強かったのも頷けます。 頂上で、世界史を変えた乃木希典の偉業と、亡くなられた多くの英霊に手を合わせましたが、二〇三高地の意味の重さに心が押し潰されそうでした。(←自撮りしている場合じゃない) ちなみに当時、日本の10倍もの国費を持ち、世界最強と言われたロシア陸軍を、極東の小国、日本が倒したということで、ルーズベルト大統領始め、世界中が沸き起こったのは有名な話です。そして、その後、有史以来、常識であった帝国主義による白人の植民地支配が音を立てて崩れ去ります。 日本は敗戦してしまいましたが、その後、植民地支配からアジアの国々が独立を果たしたのも、この日露戦争での日本の勝利があったからに他なりません。この勝利がなければ、今もなお、白人による植民地支配が続いていたはずで、全ての有色人種は自由なき奴隷のままだったと言われています。 諸説色々ありますが、乃木希典の精神性は世界に誇るべきものであり、この事実は後世に語り継がなくてはなりません。 残念ながら、敗戦してからGHQに歴史を塗り替えられましたから、今の教育には乃木希典も東郷平八郎も教科書には出てきませんし、話が出てきたとしても、極悪非道で、無能、無策により、多くの兵を死なせた戦犯であるというのが関の山です。 確かにこの戦いで1万5千人と日本兵が死にましたが、そもそも203高地の戦いは要塞戦でした。 近現代における要塞戦とは、完全なる消耗戦で、攻める側に勝ち目はないとされていました。例えば、クリミア戦争でのセヴァストポリ要塞では23万人の死者が、第一次世界大戦のフランスのヴェルダンの戦いではなんと、70万人もの死者が出ています。 203高地の戦いでは、1万5千人と多くの戦死者を出しましたが、過去の要塞戦と比較すると桁違いです。なぜ桁違いの被害で旅順を落とすことが出来たのでしょうか?それは、決して、単なる無策による特攻を繰り返したからではなく、地面の下に坑道を掘り、要塞の内側から崩壊させるなど、70回にも渡る戦術を練り上げた緻密な作戦と、それを実現した勇猛果敢な日本兵、そしてそれらの兵の気持ちをひとつにまとめあげた乃木希典大将がいたからこそできた偉業なのです。 この後に乃木希典大将とステッセル中将の会見がおこなわれた民家も見学してきました。水師営の会見の写真は有名な一枚ですが、歴史的に見て、勝利した大将と敗戦した大将が同列に肩を並べることなど絶対にあり得ない話です。乃木希典大将はステッセルに最大限の敬意を払い、この配置での写真を提案したと言います。 ステッセルは本国ロシアに帰国したのち、軍法会議により投獄されましたが、それを聞いて愕然とした乃木希典大将はロシアの皇帝に「将軍は万策尽きて開城したのであって、罪を許されよ」と嘆願書を送ったと言います。 過去の歴史を鑑みても、ここまでして敵国に敬意を払える精神性を持った軍人がいたでしょうか。何とも慈愛深い立派な人物だと思います。これが武士道というものなのでしょうか。 私達が歴史から学ぶべきものはあまりにも多くあり、今を生かされていることに感謝することはもちろんのこと、その英霊たちの犠牲に報いるより他ありません。

もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。