8月第一日曜日は恩師のお墓参り

2016.08.07(日) 日帰り

活動データ

タイム

06:02

距離

8.9km

のぼり

172m

くだり

171m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
6 時間 2
休憩時間
51
距離
8.9 km
のぼり / くだり
172 / 171 m

活動詳細

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午後3時に京都駅に大学の同期と待ち合わせるまでの間、娘と嵐山を散策しました

保津川(桂川) 嵐電嵐山駅

とてもシックな駅です
嵐電嵐山駅 とてもシックな駅です
保津川(桂川) 嵐電
嵐山線は1907年8月に神戸川崎財閥により設立された嵐山電車軌道[2](社長松方五郎[3]取締役川崎芳太郎[4])により1910年に京都-嵐山間が開通した。なおこのときに用意された木製単車20両は川崎造船所製であった。電気供給事業も兼業していたが京都電燈と競合となり1918年合併された。
嵐電 嵐山線は1907年8月に神戸川崎財閥により設立された嵐山電車軌道[2](社長松方五郎[3]取締役川崎芳太郎[4])により1910年に京都-嵐山間が開通した。なおこのときに用意された木製単車20両は川崎造船所製であった。電気供給事業も兼業していたが京都電燈と競合となり1918年合併された。
保津川(桂川) 天龍寺に行ってきます

天龍寺の沿革

天龍寺は京都屈指の観光地嵯峨嵐山、に建つ
臨済宗の禅刹。

名勝嵐山や渡月橋、天龍寺の西側に広がる亀山公園などもかつては境内地であった。
この地はその昔、檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開創した禅寺・檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、後嵯峨上皇が仙洞御所を造営し、さらに亀山上皇が仮の御所を営んだ。

天龍寺の歴史

創建と興隆
その地に足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。

造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。

造営費の捻出に成功した天龍寺は康永4年(1344)に落慶した。南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、この位置づけは以後長く続いた。

火災と兵火
かつて広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は度重なる火災に見舞われた。大きなものだけで延文元年(1356)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安2年(1445)、応仁2年(1468)、文化12年(1815)、元治元年(1864)の8回となる。

この文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の朱印を受けて順調に復興するが、文化年間に被災、この再建途中の元治元年、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失した。

以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)には上地令により嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪をのぞく)亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方の境内はほとんど上地することとなった。その結果現在の境内地はかつての10分の1、30ヘクタール(3万坪)を残すこととなっている。

復興と再建
こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。

昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。

なお塔頭の松巌寺、慈済院、弘源寺の3か寺は元治の兵火を逃れたため、室町様式あるいは徳川期のものが残る。後嵯峨、亀山両帝の御陵も元治の兵火に全焼したが、東西本願寺がいち早く再建し、方形造の廟堂は周囲の陵地とともに宮内省管轄となっている。

(河原書店「京都・世界遺産手帳」)より
天龍寺に行ってきます 天龍寺の沿革 天龍寺は京都屈指の観光地嵯峨嵐山、に建つ 臨済宗の禅刹。 名勝嵐山や渡月橋、天龍寺の西側に広がる亀山公園などもかつては境内地であった。 この地はその昔、檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開創した禅寺・檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、後嵯峨上皇が仙洞御所を造営し、さらに亀山上皇が仮の御所を営んだ。 天龍寺の歴史 創建と興隆 その地に足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。 造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。 造営費の捻出に成功した天龍寺は康永4年(1344)に落慶した。南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、この位置づけは以後長く続いた。 火災と兵火 かつて広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は度重なる火災に見舞われた。大きなものだけで延文元年(1356)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安2年(1445)、応仁2年(1468)、文化12年(1815)、元治元年(1864)の8回となる。 この文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の朱印を受けて順調に復興するが、文化年間に被災、この再建途中の元治元年、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失した。 以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)には上地令により嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪をのぞく)亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方の境内はほとんど上地することとなった。その結果現在の境内地はかつての10分の1、30ヘクタール(3万坪)を残すこととなっている。 復興と再建 こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。 昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。 なお塔頭の松巌寺、慈済院、弘源寺の3か寺は元治の兵火を逃れたため、室町様式あるいは徳川期のものが残る。後嵯峨、亀山両帝の御陵も元治の兵火に全焼したが、東西本願寺がいち早く再建し、方形造の廟堂は周囲の陵地とともに宮内省管轄となっている。 (河原書店「京都・世界遺産手帳」)より
保津川(桂川) 山門の中にたくさんのお寺
山門の中にたくさんのお寺
保津川(桂川) ハスが有名
ハスが有名
保津川(桂川) 庫裏
明治32年(1899)の建立。庫裏は七堂伽藍の一つで台所兼寺務所の機能を持つ。方丈や客殿と棟続きで、切妻造の屋根下の大きな三角形の壁を正面に見せる。

白壁を縦横に区切ったり、曲線の梁を用いたりして装飾性を出した建物で天龍寺景観の象徴ともなっている。

また、玄関に入った正面に置かれる大衝立の達磨図は前管長である平田精耕老師の筆によるもので、方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴し、天龍寺の顔ともいえる。
庫裏 明治32年(1899)の建立。庫裏は七堂伽藍の一つで台所兼寺務所の機能を持つ。方丈や客殿と棟続きで、切妻造の屋根下の大きな三角形の壁を正面に見せる。 白壁を縦横に区切ったり、曲線の梁を用いたりして装飾性を出した建物で天龍寺景観の象徴ともなっている。 また、玄関に入った正面に置かれる大衝立の達磨図は前管長である平田精耕老師の筆によるもので、方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴し、天龍寺の顔ともいえる。
保津川(桂川) ダルマ
ダルマ
保津川(桂川) 庫裏から祥雲閣に向かう回廊脇の風景
庫裏から祥雲閣に向かう回廊脇の風景
保津川(桂川) 長い回廊
祥雲閣に続いています
長い回廊 祥雲閣に続いています
保津川(桂川) 大方丈から曹源池を臨む
外人が多い
大方丈から曹源池を臨む 外人が多い
保津川(桂川) 曹源池
曹源池
保津川(桂川) 野宮神社は豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる。

天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王(平均12~13才、最年少2才、最年長で28才)の中より新たな斎王が卜定され、宮中の初斎院で一年間、そして嵯峨野の清らかな場所を選び造営された野宮に入り約一年間潔斎した後に斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)に向かい伊勢神宮での神事に臨んだ。

その時の行列を「斎王群行」といい、平成10(1998)年より毎年10月の例祭において氏子を中心に「斎宮行列」としてその様子を再現している。

野宮の場所は毎回異なっていたが、嵯峨天皇の代の仁子内親王のときから現在の野宮神社の鎮座地に野宮が作られるようになった。

斎王の制度は南北朝時代、後醍醐天皇の代の祥子内親王を最後に廃絶し、その後は天照大神を祀る神社として存続していたが、度重なる戦乱の中で衰退した。 (狩野永徳筆、洛外名所遊楽図屏風にも当社が描かれている。)

後に後奈良天皇、中御門天皇らの綸旨により再興され、現在まで皇室からの厚い崇敬を受ける。

近年では、昭和55(1980)年3月18日に浩宮徳仁親王殿下、平成6(1994)年2月12日には秋篠宮文仁親王殿下並びに同妃殿下が御参拝された。
野宮神社は豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる。 天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王(平均12~13才、最年少2才、最年長で28才)の中より新たな斎王が卜定され、宮中の初斎院で一年間、そして嵯峨野の清らかな場所を選び造営された野宮に入り約一年間潔斎した後に斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)に向かい伊勢神宮での神事に臨んだ。 その時の行列を「斎王群行」といい、平成10(1998)年より毎年10月の例祭において氏子を中心に「斎宮行列」としてその様子を再現している。 野宮の場所は毎回異なっていたが、嵯峨天皇の代の仁子内親王のときから現在の野宮神社の鎮座地に野宮が作られるようになった。 斎王の制度は南北朝時代、後醍醐天皇の代の祥子内親王を最後に廃絶し、その後は天照大神を祀る神社として存続していたが、度重なる戦乱の中で衰退した。 (狩野永徳筆、洛外名所遊楽図屏風にも当社が描かれている。) 後に後奈良天皇、中御門天皇らの綸旨により再興され、現在まで皇室からの厚い崇敬を受ける。 近年では、昭和55(1980)年3月18日に浩宮徳仁親王殿下、平成6(1994)年2月12日には秋篠宮文仁親王殿下並びに同妃殿下が御参拝された。
保津川(桂川) 苔を用い嵐山を表した美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」を始め、モミジ・椿・石楠花・馬酔木等が境内を彩り季節毎に、その表情を変え参拝者を楽しませる
苔を用い嵐山を表した美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」を始め、モミジ・椿・石楠花・馬酔木等が境内を彩り季節毎に、その表情を変え参拝者を楽しませる
保津川(桂川) 
野宮神社から天龍寺の北側を通って大河内山荘庭園へ通じる長さ400mほどの見事な竹林の小径。青々とした竹は空を覆うほど高く、晴れた日は竹林からもれる日差しを浴びて、気持ちよく散策できる。天気が悪いと昼でもほの暗いがそれもまた趣がある。夕暮れ時も幻想的で、まるで異次元に迷い込んだかのよう。京を代表する風景であり、テレビドラマなどにもよく登場する。また、初冬の新たな風物詩「嵐山花灯路」では、竹林の両側がライトアップされ、灯りにゆらめく夜の竹林の幻想的な景色が楽しめる。
野宮神社から天龍寺の北側を通って大河内山荘庭園へ通じる長さ400mほどの見事な竹林の小径。青々とした竹は空を覆うほど高く、晴れた日は竹林からもれる日差しを浴びて、気持ちよく散策できる。天気が悪いと昼でもほの暗いがそれもまた趣がある。夕暮れ時も幻想的で、まるで異次元に迷い込んだかのよう。京を代表する風景であり、テレビドラマなどにもよく登場する。また、初冬の新たな風物詩「嵐山花灯路」では、竹林の両側がライトアップされ、灯りにゆらめく夜の竹林の幻想的な景色が楽しめる。
保津川(桂川) 竹の高さは約25メートル
竹の高さは約25メートル
保津川(桂川) まだまだ竹林
まだまだ竹林
保津川(桂川) 大河内山荘(おおこうちさんそう)は京都市右京区嵯峨にある日本庭園。時代劇などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘として造営した回遊式庭園である

昭和9年(1931年)、傳次郎34歳のとき、当時長期保存が難しかったフィルムに対し永く消えることのない美を追究するため自身で設計しこの庭の造営を始めた。映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで30年の歳月をかけてこつこつと作り上げたものである。 場所は小倉百人一首でも知られる小倉山の南東面、嵐山公園(亀山公園)に挟まれた約2万平方メートルの荒地であったところに位置している。
大河内山荘(おおこうちさんそう)は京都市右京区嵯峨にある日本庭園。時代劇などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘として造営した回遊式庭園である 昭和9年(1931年)、傳次郎34歳のとき、当時長期保存が難しかったフィルムに対し永く消えることのない美を追究するため自身で設計しこの庭の造営を始めた。映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで30年の歳月をかけてこつこつと作り上げたものである。 場所は小倉百人一首でも知られる小倉山の南東面、嵐山公園(亀山公園)に挟まれた約2万平方メートルの荒地であったところに位置している。
保津川(桂川) 嵐山が綺麗です
嵐山が綺麗です
保津川(桂川) 持仏堂
持仏堂
保津川(桂川) 滴水庵の庭園
滴水庵の庭園
保津川(桂川) 滴水庵
滴水庵
保津川(桂川) 嵐山の大悲閣
嵐山の大悲閣
保津川(桂川) 月香展望台
月香展望台
保津川(桂川) 妙香庵の庭園
妙香庵の庭園
保津川(桂川) 丹下左膳
丹下左膳
保津川(桂川) お抹茶席で
お抹茶席で
保津川(桂川) お抹茶席から竹林を臨む
お抹茶席から竹林を臨む
保津川(桂川) 御祭神  藤原采女亮政之公
(ふじわらうねめのすけまさゆき)
西暦1200年代人皇90代亀山天皇(1259~1274年)の御代に藤原鎌足の末孫である北小路左衛尉藤原基春卿は皇居の守護にあたる武士でありました。 文永年間下関に居を構え、その三男の藤原采女亮政之(うねめのすけまさゆき)公は、その地に於いて髪結職を我国最初に起こされた基春卿死後の弘安四年(1281年)、居を鎌倉に移しましたが、建武二年(1335年)4月17日に歿し、立派な処世と功績により従五位を賜りました。 

御髪神社は、政之公と最も由縁の深い亀山天皇御陵に程ちかい小倉山の麓に建立されました。「髪」すなわち「神」に通ずるものとして、主神の政之公を祀り、皆様からの献髪を納祭した髪塚があり、日々神職により祈拝をうけ毎年御大祭日には、業祖神零祭と髪供養をもって髪より享ける大きな恩恵に感謝しております。
御祭神  藤原采女亮政之公 (ふじわらうねめのすけまさゆき) 西暦1200年代人皇90代亀山天皇(1259~1274年)の御代に藤原鎌足の末孫である北小路左衛尉藤原基春卿は皇居の守護にあたる武士でありました。 文永年間下関に居を構え、その三男の藤原采女亮政之(うねめのすけまさゆき)公は、その地に於いて髪結職を我国最初に起こされた基春卿死後の弘安四年(1281年)、居を鎌倉に移しましたが、建武二年(1335年)4月17日に歿し、立派な処世と功績により従五位を賜りました。 御髪神社は、政之公と最も由縁の深い亀山天皇御陵に程ちかい小倉山の麓に建立されました。「髪」すなわち「神」に通ずるものとして、主神の政之公を祀り、皆様からの献髪を納祭した髪塚があり、日々神職により祈拝をうけ毎年御大祭日には、業祖神零祭と髪供養をもって髪より享ける大きな恩恵に感謝しております。
保津川(桂川) 噂のドリームアットにひっかかりました

http://kyotopi.jp/articles/YElT0

3,000円も払うのでもう少し期待したのですが

このお店のすぐ近くに呼び込み禁止の貼り紙がたくさんありますが、まさか、ここのこととは。

外人さんは料金を聞いて3ドル?と何回も聞き直して、高いと言って帰って行きました。

さすがに旅慣れていて常識を持っている
噂のドリームアットにひっかかりました http://kyotopi.jp/articles/YElT0 3,000円も払うのでもう少し期待したのですが このお店のすぐ近くに呼び込み禁止の貼り紙がたくさんありますが、まさか、ここのこととは。 外人さんは料金を聞いて3ドル?と何回も聞き直して、高いと言って帰って行きました。 さすがに旅慣れていて常識を持っている
保津川(桂川) 常寂光寺(じょうじゃっこうじ)は京都府京都市の嵯峨野にある日蓮宗の仏教寺院。山号は小倉山。旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)。

百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。

平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として当山を開いた。

歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。



ここでたくさんドリームアットの苦情を受け付けてました。
まあ、古民家の維持にはお金がかかるのでしようが、1人3千円は高すぎです。
常寂光寺(じょうじゃっこうじ)は京都府京都市の嵯峨野にある日蓮宗の仏教寺院。山号は小倉山。旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)。 百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。 平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として当山を開いた。 歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。 ここでたくさんドリームアットの苦情を受け付けてました。 まあ、古民家の維持にはお金がかかるのでしようが、1人3千円は高すぎです。
保津川(桂川) 仁王門 - 南北朝時代の貞和年間に本圀寺の南門として建立、元和2年(1616年)に現在地に移築、藁葺き
仁王門 - 南北朝時代の貞和年間に本圀寺の南門として建立、元和2年(1616年)に現在地に移築、藁葺き
保津川(桂川) 道々、小さな石仏があります
道々、小さな石仏があります
保津川(桂川) 展望台から市内を臨む
展望台から市内を臨む
保津川(桂川) 多宝塔 - 国の重要文化財、元和6年(1620年)建立、高さ12m、檜皮葺
多宝塔 - 国の重要文化財、元和6年(1620年)建立、高さ12m、檜皮葺
保津川(桂川) 清凉寺の山門は天明3年(1783)に再建に取りかかり、翌年(天明4年、1784)上棟。寛政8年(1796)年に瓦葺工事を行いました。全体的に和様と禅宗様を折衷したものです。初層には室町時代の仁王像、上層には十六羅漢像を祀ります。ケヤキ造りの二階二重門です。
嵐山渡月橋からまっすぐ北にさかのぼり、左手に大本山天龍寺を見、JR嵯峨野線を越え、しばらく行くと清凉寺の仁王門に至ります。嵯峨野のちょうど真ん中に位置し、すくっと立つ姿は「嵯峨野の顔」とも称されます。

清凉寺(せいりょうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名で知られ、中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は奝然、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。

この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係している。この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822年 - 895年)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという。

棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(“ちょうねん”938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」、釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」と呼ばれている。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像(985年とされ、「清凉寺様式」と呼ばれ、現在国宝)を安置する寺を建立しようとした。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。

融通念仏との結びつきができたのは、弘安2年(1279年)以降のことである。この年、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が、当寺で融通念仏を勤修している。その後、当寺で大念仏が盛んになり、融通念仏の道場となった。嵯峨大念仏が初めて執行されたのは、下って嘉吉3年(1443年)のこととされる。その後、応仁の乱で本寺の伽藍は焼失するが、文明13年(1481年)に再興された。

享禄3年(1530年)に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり伽藍の破損は甚大となる。

本寺の釈迦像は、前述のとおり、10世紀に中国で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから将来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようになった[1]。こうした信仰を受け、元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まる。また、徳川綱吉の母である桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれた。 このように、三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や、阿弥陀三尊像(国宝、現在は霊宝館に安置)に、その名残りをとどめる。
清凉寺の山門は天明3年(1783)に再建に取りかかり、翌年(天明4年、1784)上棟。寛政8年(1796)年に瓦葺工事を行いました。全体的に和様と禅宗様を折衷したものです。初層には室町時代の仁王像、上層には十六羅漢像を祀ります。ケヤキ造りの二階二重門です。 嵐山渡月橋からまっすぐ北にさかのぼり、左手に大本山天龍寺を見、JR嵯峨野線を越え、しばらく行くと清凉寺の仁王門に至ります。嵯峨野のちょうど真ん中に位置し、すくっと立つ姿は「嵯峨野の顔」とも称されます。 清凉寺(せいりょうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名で知られ、中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は奝然、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。 この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係している。この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822年 - 895年)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという。 棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(“ちょうねん”938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」、釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」と呼ばれている。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像(985年とされ、「清凉寺様式」と呼ばれ、現在国宝)を安置する寺を建立しようとした。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。 融通念仏との結びつきができたのは、弘安2年(1279年)以降のことである。この年、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が、当寺で融通念仏を勤修している。その後、当寺で大念仏が盛んになり、融通念仏の道場となった。嵯峨大念仏が初めて執行されたのは、下って嘉吉3年(1443年)のこととされる。その後、応仁の乱で本寺の伽藍は焼失するが、文明13年(1481年)に再興された。 享禄3年(1530年)に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり伽藍の破損は甚大となる。 本寺の釈迦像は、前述のとおり、10世紀に中国で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから将来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようになった[1]。こうした信仰を受け、元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まる。また、徳川綱吉の母である桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれた。 このように、三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や、阿弥陀三尊像(国宝、現在は霊宝館に安置)に、その名残りをとどめる。
保津川(桂川) 国宝が御開帳されてました
今日は付いている

「釈迦堂」は、清凉寺本尊三国伝来生身釈迦如来像(国宝)を安置する本堂です。寛永14年の嵯峨大火により諸堂宇が消失しましたが、徳川五代将軍綱吉・生母桂昌院の発願、住友吉左衛門の援助により元禄7年(1694)から修理に取りかかり、同14年(1701)年に上棟。同16年に鎮壇、遷仏供養を行いました。桁行・梁間7間、一重入母屋造、本瓦葺で、和様と禅宗様を折衷、本山級の風格を備えます。内内陣の宮殿厨子は、五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進による豪華なものです。宮殿裏には、古カン(石ヘンに間)筆による「釈迦堂縁起」の一部を拡大した大壁画があります。また本堂正面楣上には黄檗隠元禅師筆による「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」の大額が掛っています。
国宝が御開帳されてました 今日は付いている 「釈迦堂」は、清凉寺本尊三国伝来生身釈迦如来像(国宝)を安置する本堂です。寛永14年の嵯峨大火により諸堂宇が消失しましたが、徳川五代将軍綱吉・生母桂昌院の発願、住友吉左衛門の援助により元禄7年(1694)から修理に取りかかり、同14年(1701)年に上棟。同16年に鎮壇、遷仏供養を行いました。桁行・梁間7間、一重入母屋造、本瓦葺で、和様と禅宗様を折衷、本山級の風格を備えます。内内陣の宮殿厨子は、五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進による豪華なものです。宮殿裏には、古カン(石ヘンに間)筆による「釈迦堂縁起」の一部を拡大した大壁画があります。また本堂正面楣上には黄檗隠元禅師筆による「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」の大額が掛っています。
保津川(桂川) 弁天堂西  川中島
弁天堂西 川中島
保津川(桂川) 弁天堂の上がり口
弁天堂の上がり口
保津川(桂川) 弁天堂にて写経中
弁天堂にて写経中
保津川(桂川)  弁天堂(べんてんどう)は、正確な建築年は不明ですが江戸時代後期と推定される建物です。屋根は宝形造りで、正面の屋根は軒唐破風となっています。建物正面には、両脇の間の腰羽目板に「松に獅子」、扉に「梅鉢」「牡丹唐草」の彫刻が施され、全体的に装飾彫刻が多い建造物です。
 弁天堂(べんてんどう)は、正確な建築年は不明ですが江戸時代後期と推定される建物です。屋根は宝形造りで、正面の屋根は軒唐破風となっています。建物正面には、両脇の間の腰羽目板に「松に獅子」、扉に「梅鉢」「牡丹唐草」の彫刻が施され、全体的に装飾彫刻が多い建造物です。
保津川(桂川) 仁王門を釈迦堂から望む
仁王門を釈迦堂から望む
保津川(桂川) 小学校?
小学校?
保津川(桂川) 桂川で何をやってる?
桂川で何をやってる?
保津川(桂川) 渡月橋は、桂川左岸(北側)と、中州である中ノ島公園の間に架かる橋で、全体が右京区にある。橋長155m、幅11m、車道は2車線で、両側に一段高くした歩道がある。観光名所であるとともに、桂川の両岸地域を結ぶ重要な交通路で、京都府道29号の一部となっている。また、南詰は京都八幡木津自転車道の起点となっている
渡月橋は、桂川左岸(北側)と、中州である中ノ島公園の間に架かる橋で、全体が右京区にある。橋長155m、幅11m、車道は2車線で、両側に一段高くした歩道がある。観光名所であるとともに、桂川の両岸地域を結ぶ重要な交通路で、京都府道29号の一部となっている。また、南詰は京都八幡木津自転車道の起点となっている
保津川(桂川) 私が大学の恩師のお墓詣りの間、娘はのんびりと湯浴み
のつもりが待たせすぎてしまった
私が大学の恩師のお墓詣りの間、娘はのんびりと湯浴み のつもりが待たせすぎてしまった

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