活動データ
タイム
03:05
距離
6.1km
のぼり
486m
くだり
478m
活動詳細
すべて見る自然を楽しむ山、体力試しの山、人それぞれの山の楽しみ方がありますが、今回は戦国大名の朝倉氏が築いた城塞跡を山登りを通じて見てきました。 一乗城山の麓の城下町一乗谷は朝倉5代に渡り約100年栄えた町で、最盛期には1万人ほどが住んでいたといわれています。南北10kmの小さな町の割には人口が密集していました。 城と城下町の関係であれば比較的上りやすく、ハイキング感覚で下城戸ルートから入山しましたが鉄塔までの約800m、30分が結構な急騰でした。岩肌が剥き出しになり、前日までの雨のせいでとても滑りやすくなっていました。この下城戸ルートは一の丸までは歴史的な名所はありませんでしたが尾根を切り通した堀のようなものが見えてくると一の丸です。自然にはできない、人工的な溝や平らにならした土地があるだけで、想像の目で見ないと当時の様子が見えてきません。一の丸と二の丸、二の丸と三の丸との間にはそれぞれ堀切で隔てられ、突出した曲輪(くるわ)と呼ばれる平たい小山になっています。4,5mほど上ると平坦な土地になっていますが100坪あるかないかの狭い空間です。戦いに備えて兵士達がここで寝泊まりしていたのでしょう。 本丸跡はここから少し下ったところの千畳敷と呼ばれる山上御殿があったところですが、土地が平坦になっているだけでほとんど何もありません。そこから土塁に囲まれた観音屋敷跡を100mほど進むと宿直(とのい)跡に出ました。ここからの眺望は曇りの今日でもよく、文殊山や国見峠まで見えました。 刀禰坂の戦いに敗れた朝倉義景(よしかげ)は従弟である越前大野の朝倉景彰(かげあきら)のところに逃れますが、2,3日後隠れ逃れていた寺に織田方である朝倉景彰の襲撃に遭い自害に追いやられます。そして逃れていた母や子までもが見つけ出され殺害されます。一乗谷は織田方に寝返った平泉寺の僧兵達にに焼き払われ、これにより老若男女幼い子供までが殺されてしまったのでしょう。 その後は一向一揆でまたもや焼き討ちに遭い、約400年間土に埋められていました。しかし昭和40年代の発掘調査開始から次第に当時の武家屋敷や町人商人の住居跡がそっくりそのまま出土し、今もなお調査は続いています。 平安、江戸時代は数百年にわたり安泰な時代でしたが、戦国、明治、大正、昭和となると人が人を殺し合う今では想像できない恐ろしい時代でした。他勢との戦いに備え、そして毎日を脅えて暮らすなど想像もつかない当時の様子を想像しながらの登山になりました。 結論、今の私は生きていられるだけでも幸せです。殺される確率は当時と比べて極端に低いからです。
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