倶利伽羅峠・歴史国道旧北陸道

2017.12.03(日) 日帰り

活動データ

タイム

04:40

距離

9.3km

のぼり

385m

くだり

385m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
4 時間 40
休憩時間
1 時間 1
距離
9.3 km
のぼり / くだり
385 / 385 m
1 54
7
13
15
34
32

活動詳細

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もう2週間前にもなりますが、初冬の晴れ間に倶利伽羅峠に行って参りました。 倶利伽羅峠と言えば、源木曾義仲と平維盛を総大将とする平家軍の間で起きた倶利伽羅合戦があった場所です。 木曾義仲が戦勝祈願した埴生護国八幡宮前の駐車場から、義仲進軍の道を歩き、砂坂を経て礪波山に行き、倶利伽羅不動寺の食堂でうどんを食べ、帰りは歴史国道旧北陸道を通って、若宮古墳を経由して戻る周遊コースを歩きます。 距離は長いですが、3分の2は車道歩きとなり、車が時折走りますので、注意が必要ですね。 途中、お万という女性が人柱になったという埴生大池、今回訪れませんでしたが、義仲本陣跡・源氏ヶ峰の山城跡・芭蕉碑・倶利伽羅合戦戦死者供養碑、歴史国道沿いには天池(巴御前所縁)・茶屋跡など史跡が多数点在します。また、6世紀初頭の前方後円墳があり、歴史探訪を楽しむことができます。 『倶利伽羅合戦』 治承・寿永の乱の一つで、源平合戦で、転換期となる戦いです。 火牛の計で有名ですが、物理的にも不可能とされ、源平盛衰記で記されてる火牛の計は、脚色であろうとされており、史実ではないとされています。 実際は、平家軍が寝静まった頃に奇襲をかけ、不意を突かれた平家軍は大混乱に陥り、谷間へ逃げ込もうとしますが、そこは地獄谷と呼ばれる断崖で、次々と谷底に転落し、下流では膿が流れてきて、死臭が漂ったと言います。その川が、小矢部川支流、膿川です。 木曾義仲は以前は征夷大将軍と云われていた時期もありますが、正しくは征東大将軍だという事です。 旧北陸道は電車の場合、石動駅下車埴生まで徒歩で行きます。約一時間程で、反対側津幡側を下り、倶利伽羅駅まで歩くことになります。

小矢部市 ツルリンドウが赤い実を多数付けていますね。
ツルリンドウが赤い実を多数付けていますね。
小矢部市 戦時中射撃訓練が行われていたそうです。
戦時中射撃訓練が行われていたそうです。
小矢部市 まだ咲いてたか?(^^;;
まだ咲いてたか?(^^;;
小矢部市 埴生大池。灌漑用のアース式ダムのダム湖で、元々池があったようで灌漑用に使われていたそうです。老朽化により、1989年に溜池整備事業により1993年に完成したものです。
江戸時代、埴生大池の堤防が相次いで決壊し田畑が水没し、埴生村大字綾子村の村役・八十嶋家の手伝いお万が、決壊を食い止める為に人柱になったという言い伝えがあります。以来決壊することはなくなり、米が収穫できるようになったと伝えられます。
埴生大池。灌漑用のアース式ダムのダム湖で、元々池があったようで灌漑用に使われていたそうです。老朽化により、1989年に溜池整備事業により1993年に完成したものです。 江戸時代、埴生大池の堤防が相次いで決壊し田畑が水没し、埴生村大字綾子村の村役・八十嶋家の手伝いお万が、決壊を食い止める為に人柱になったという言い伝えがあります。以来決壊することはなくなり、米が収穫できるようになったと伝えられます。
小矢部市 礪波山からの展望。左に稲葉山。中央奥に、高岡市のシンボルでもある、二上山が見えます。
礪波山からの展望。左に稲葉山。中央奥に、高岡市のシンボルでもある、二上山が見えます。
小矢部市 倶利伽羅不動寺。高野山真言宗。812年開山。
養老2年、元正天皇の勅願により、不動明王をこの地に安置したのが始まりと伝えられます。成田山不動・大山不動と共に、日本三大不動尊として数えられます。
倶利伽羅不動寺。高野山真言宗。812年開山。 養老2年、元正天皇の勅願により、不動明王をこの地に安置したのが始まりと伝えられます。成田山不動・大山不動と共に、日本三大不動尊として数えられます。
小矢部市 天池。巴御前は一時和田義盛の元にいましたが、和田氏滅亡後、礪波郡の守護石黒氏の元に身を寄せこの地で死去したとされます。この池の名は尼から来ており、出家した巴御前を指します。
巴御前の死についてははっきりせず、異論もあり、尚、木曾義仲の愛人のように云われていますが、側室でもなく、従者として従っていたというのが真相だそうです。つまり武将として、戦に参戦していたということになります。
天池。巴御前は一時和田義盛の元にいましたが、和田氏滅亡後、礪波郡の守護石黒氏の元に身を寄せこの地で死去したとされます。この池の名は尼から来ており、出家した巴御前を指します。 巴御前の死についてははっきりせず、異論もあり、尚、木曾義仲の愛人のように云われていますが、側室でもなく、従者として従っていたというのが真相だそうです。つまり武将として、戦に参戦していたということになります。
小矢部市 日本語になっていないんだけど(^^;;
日本語になっていないんだけど(^^;;
小矢部市 歌にも読まれていたようです。
歌にも読まれていたようです。

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