活動データ
タイム
02:07
距離
2.6km
のぼり
336m
くだり
337m
活動詳細
すべて見る●篠山盆地の城めぐり 篠山口を起点にレンタサイクル(電動チャリ)で移動。 篠山口駅~八上春日神社~八上城~八上春日神社~福住~籾井城~福住~篠山口 データ混在してしまうので徒歩分のみ採録、八上城と籾井城を分割。 実際はチャリ部分が、電動でもきつかった。(篠山口~福住:約16キロ。) ■八上城(高城山) 険しい道を想像していたら、意外と緩やかな登城道。 とくに危険個所もない。 虎口や、主郭(矢倉相当部分?)など、部分的に石垣が使われているが、多くはない。 平坦面は広めだが、それほどでもない。 堀切もまあそんなもんだろだし、 正直、少々拍子抜けするような普通の山城。 ただ、やはりこの城は由来がすごい。 だから遺構は正直二の次。登っただけで十分満足。 光秀の母とか朝路姫とかの伝説のたぐいもあるけど、 史実だけで十分すごい。 以前から登りたかった効果もあって、かなり掻き立てられるものがあった。 ※なおGPS軌跡がおかしいので注意。 (主郭南東尾根=遊歩道どおりであるいて池にたどり着いて、同一ルートで戻ったのに、 谷筋を越えて南西尾根から帰ったことになっている) 以下は個人的備忘ですが、城や歴史に興味のある方はどうぞ。 ■波多野氏、八上城とその近辺の由来をざっくりと よく理解していなかった丹波戦国史の勉強のため。あとは大河ドラマに突っ込みいれるため。 (元研究フィールド隣国なのになんたるざま!) 八上城の報告書から抜きたいが、手元にないので、 主に武家家伝さんや、篠山市教委、丹波市教委のサイト、wikiを参考に。 丹波国 郡と大体の位置地名 天田(福知山)/氷上(柏原、黒井)/多紀(篠山) /何鹿(綾部)船井(園部・八木)/桑田(亀岡) (旧国名の市町村名とか、国名+方角とかざっくりしすぎだし位置分からんし混同するしでマジ勘弁) 八上城:波多野氏居城。 波多野氏は石見吉見氏の一族だったが、細川勝元に取り立てられて丹波入部。 文明年間:上原氏の小守護代。細川政権「内衆」。 後年も守護代ではないし、守護でもないが、言継卿記には丹州守護とされている。 大永6年(1526)細川尹賢が波多野元清(元清=一般に言う稙通)を矢上城に攻めた、のが城の初見。 永禄年間に内藤宗勝(※松永弾正弟)に攻め取られるが、内藤敗死後に波多野が奪還。 (香西元盛切腹事件以来の波多野vs内藤の継続に注意。) (内藤により、法光寺山の城郭の築城→以降城側、攻城側双方による改修実施) 天正4年(1576)に織田氏が黒井城の赤井直正(「赤鬼」)を攻めるが、織田を離反して背後から襲撃。赤井に共同。 天正5年(1577)11月、安口、籾井両城落城。籾井綱利(=「青鬼」教業)戦死。 天正6年(1578)から織田方=明智光秀の丹波平定戦本格化。 (これ以前に大手が奥谷から八上に転換。現在の大手居館平坦部=主膳屋敷の構築) 同年3月、赤井直正病死。 天正7年(1579)6月、八上城、包囲戦の末、飢餓と内部崩壊により開城。波多野三兄弟処刑、波多野氏滅亡。 同年6月、黒井城落城。(丹波平定) 以降、明智支配~前田玄以―茂勝~松平康重と続く。 慶長13年(1608)前田茂勝改易 翌14年、松平康重は篠山新城へ移転。(政庁としての機能停止) ※19/1/14誤記訂正 元秀→元清 元清―秀忠―元秀―秀治。
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