城山ルートから経小屋山

2018.10.06(土) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
4 時間 43
休憩時間
31
距離
7.7 km
のぼり / くだり
768 / 774 m
9
26
2 8
1 7
8

活動詳細

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朝6時自宅を出発し吉和方面に車を走らせ、十方山の麓にある駐車場で、しばし待機… こりゃ〜風は強いし、雨雲レーダーで確認すると今にも☔️降り出しそうな感じ。 安全第一が基本なので、仕方なく自宅へ帰りながら羅漢高原にも立ち寄りると霧&☔️こっちも🙅‍♂️ 約90キロドライブしてしまった😞 阿保〜です。 帰宅後、瀬戸内側は比較的天候も良さげなので、懲りずにそそくさと準備、10時頃から近郊の経小屋山へレッツゴー‼️ 妹背の滝から城山ルートを選択し、経小屋山へ縦走して来たが、途中で挫折するかなと思うくらい城山頂上から経小屋山へ行くルートは山頂に近づくにつれ登りがキツイんじゃー(^^;; 台風25号の影響で稜線に出ると風は強いけど、汗もハンパない!夏と変わらん。 体重3.5キロも落ちていた。

廿日市市 雌滝  夏は子供達を連れて水遊びを良くしたな
雌滝 夏は子供達を連れて水遊びを良くしたな
廿日市市 幾千代橋を渡り左に行くと雄滝、右の石段を登って登山口方面に向かう。
幾千代橋を渡り左に行くと雄滝、右の石段を登って登山口方面に向かう。
廿日市市 雄滝 夏場は家族連れが多い。マイナスイオンを感じられる。
たまに外人女性のビキニ姿が見られることもあり、子供を遊ばせながら、お父さん達の目は子供を見ていない。私もです。
雄滝 夏場は家族連れが多い。マイナスイオンを感じられる。 たまに外人女性のビキニ姿が見られることもあり、子供を遊ばせながら、お父さん達の目は子供を見ていない。私もです。
廿日市市 城山ルートはここからスタート
城山ルートはここからスタート
廿日市市 この先を右に登って行く
この先を右に登って行く
廿日市市 眼下に見えるのは大野地区 
宮島も見える
眼下に見えるのは大野地区 宮島も見える
廿日市市 大野自然観察の森方面
大野自然観察の森方面
廿日市市 宮島がよく見える
宮島がよく見える
廿日市市 行者山は今回パス
行者山は今回パス
廿日市市 大野瀬戸から広島湾 なかなかの絶景ポイント
山陽道、山陽新幹線も眼下に見える
大野瀬戸から広島湾 なかなかの絶景ポイント 山陽道、山陽新幹線も眼下に見える
廿日市市 柱の穴
柱の穴
廿日市市 こっちも柱の穴
こっちも柱の穴
廿日市市 門山城跡

 城址は城山と呼ばれている。海抜265.5mの山城で、山頂の岩を利用して諸施設をもうけていたものと思われ、山頂東端の岩には、約1.9mの間隔で、柱穴と思われるもの二個、その南の岩にも1.1mから1.07mの間隔で、丸柱の穴と思われるものが7個、東西一列に並んでいる。西端の岩の斜面には「刀掛け」と呼ばれている階段状の浅い刻みがある。
 さらに、南へはり出した大岩には「馬のたらい」と言われる縦65cm横1.9m深さ30cmの水槽が彫られている。
山城の城主は、平時はふもとの館に住んで領分を支配し、自らも一族や使用人を使って田畑を作り、事ある時は一族郎党を率いて山城にのぼり、戦闘にあたった。

 門山城の起源は明らかではない。鎌倉時代の末から南北朝時代にかけ、厳島神領自衛の必要上、西部から侵入する勢力に対抗するために備えられたのではないかと考えられる。
戦国時代、厳島神社の棚守佐伯房顕の日記に「大野城主弾正少弼」の名が載っている。大野氏は厳島神領衆の有力な一員であり、門山城主、大野郷の土豪でもあった。
 大永4年(1524)5月、友田興藤が尼子、武田両氏と結び大内氏に叛した時、友田方であった大野弾正が大内氏と内応し、城に火をかけて武田・友田軍を敗走させている。
 天文23年(1554)5月、宮内村折敷畑合戦までに、門山城は毛利方吉川元春軍によって攻められ、城は破壊され、大野氏も滅亡した。
門山城跡  城址は城山と呼ばれている。海抜265.5mの山城で、山頂の岩を利用して諸施設をもうけていたものと思われ、山頂東端の岩には、約1.9mの間隔で、柱穴と思われるもの二個、その南の岩にも1.1mから1.07mの間隔で、丸柱の穴と思われるものが7個、東西一列に並んでいる。西端の岩の斜面には「刀掛け」と呼ばれている階段状の浅い刻みがある。  さらに、南へはり出した大岩には「馬のたらい」と言われる縦65cm横1.9m深さ30cmの水槽が彫られている。 山城の城主は、平時はふもとの館に住んで領分を支配し、自らも一族や使用人を使って田畑を作り、事ある時は一族郎党を率いて山城にのぼり、戦闘にあたった。  門山城の起源は明らかではない。鎌倉時代の末から南北朝時代にかけ、厳島神領自衛の必要上、西部から侵入する勢力に対抗するために備えられたのではないかと考えられる。 戦国時代、厳島神社の棚守佐伯房顕の日記に「大野城主弾正少弼」の名が載っている。大野氏は厳島神領衆の有力な一員であり、門山城主、大野郷の土豪でもあった。  大永4年(1524)5月、友田興藤が尼子、武田両氏と結び大内氏に叛した時、友田方であった大野弾正が大内氏と内応し、城に火をかけて武田・友田軍を敗走させている。  天文23年(1554)5月、宮内村折敷畑合戦までに、門山城は毛利方吉川元春軍によって攻められ、城は破壊され、大野氏も滅亡した。
廿日市市 城山山頂
城山山頂
廿日市市 門山城跡
門山城跡
廿日市市 侵入者をここから監視していたのかな。
侵入者をここから監視していたのかな。
廿日市市 ここにも柱の穴
どんだけの建物があったんだろうか?
ここにも柱の穴 どんだけの建物があったんだろうか?
廿日市市 馬のたらいへ
馬のたらいへ
廿日市市 馬のたらい
馬のたらい
廿日市市 右奥に見えるのが中学軟式野球大野シニアクラブのホームグランド。
2017年カープドラ1 ♯22  が巣立ったチーム。
右奥に見えるのが中学軟式野球大野シニアクラブのホームグランド。 2017年カープドラ1 ♯22 が巣立ったチーム。
廿日市市 大野瀬戸  牡蠣筏が並ぶ
大野瀬戸 牡蠣筏が並ぶ
廿日市市 経小屋山へ縦走するルート
経小屋山へ縦走するルート
廿日市市 妹背の滝方面に帰るか?経小屋山へ行くか?
迷ったが、行くしかないでしょう
妹背の滝方面に帰るか?経小屋山へ行くか? 迷ったが、行くしかないでしょう
廿日市市 宮島の⛩が見えるかな?
フェリーは運航停止しているみたい
宮島の⛩が見えるかな? フェリーは運航停止しているみたい
廿日市市 やっと宮浜ルートにつながった
やっと宮浜ルートにつながった
廿日市市 経小屋山頂の三角点
ここまで来るのが辛かった。途中昼食を取ったが、写真撮る元気も無く…
経小屋山頂の三角点 ここまで来るのが辛かった。途中昼食を取ったが、写真撮る元気も無く…
廿日市市 10分滞在して、来た道を帰る
10分滞在して、来た道を帰る
廿日市市 山頂からのパノラマが広がる
山頂からのパノラマが広がる
廿日市市 経小屋山の由来
人皇38代の天智天皇(626~671)の頃、百済を援けた日本軍は、唐新羅の連合軍に白村
江(はくすきのえ)で大敗した。爾来、壱岐、対馬、博多、馬関はもちろん、瀬戸内海の要所
にも烽(とぶひ)台を設け、防人(さきもり)を配置し外敵に備えた。遣唐使船などは山陽本
土沿いに航行したので、弥山よりも66mも高い経小屋山に物見台として適地だったし、防人
が山頂で屯しても自然に湧き出る飲水があった。しかも巨岩が垂直に重なる難攻不落の砦であ
った。天智天皇在位の頃から一切経の写水が流行した。一切経は国内に伝播し各地に経塚、経
小屋、経蔵、経祠、経堂が建てられた。大野の経小屋山でも、山頂に看視をつづける防人達が
一切経を守り本尊とした。このため、経小屋山の名前が生まれたのではないだろうかと言われ
ている。安政の黒船渡来の頃も、経小屋山は、五日市の海老山に呼応する火の山として緊張し
たこともあ
経小屋山の由来 人皇38代の天智天皇(626~671)の頃、百済を援けた日本軍は、唐新羅の連合軍に白村 江(はくすきのえ)で大敗した。爾来、壱岐、対馬、博多、馬関はもちろん、瀬戸内海の要所 にも烽(とぶひ)台を設け、防人(さきもり)を配置し外敵に備えた。遣唐使船などは山陽本 土沿いに航行したので、弥山よりも66mも高い経小屋山に物見台として適地だったし、防人 が山頂で屯しても自然に湧き出る飲水があった。しかも巨岩が垂直に重なる難攻不落の砦であ った。天智天皇在位の頃から一切経の写水が流行した。一切経は国内に伝播し各地に経塚、経 小屋、経蔵、経祠、経堂が建てられた。大野の経小屋山でも、山頂に看視をつづける防人達が 一切経を守り本尊とした。このため、経小屋山の名前が生まれたのではないだろうかと言われ ている。安政の黒船渡来の頃も、経小屋山は、五日市の海老山に呼応する火の山として緊張し たこともあ

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