活動データ
タイム
04:45
距離
14.1km
のぼり
554m
くだり
556m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る* * * 天正3年(1573)、恒屋伊賀守は、一族の肥前守(※1)や、諸侍、被官、郎従を従えつつ、 意気揚々と、炊煙あがる夕暮れの恒屋城下を出発した。 顔ぶれには、宍粟の宇野政頼からの援将も加わっていた(※2)。 目指す先は置塩城(※3)。 播磨守護、赤松氏の本拠である。 彼らはこれを奪い、播磨に覇を唱えんと挙兵した。 勝手知ったる棚原山をすぎ、 彼らは息をひそめて夜道を南条山(※4)へ進んだ。 南条山には、山岳寺院の跡があるが、 これを赤松方は置塩城を守る城郭として取り立てていた(※5)。 恒屋勢は闇夜の南条山城を急襲した。 そして、その勢いのまま急坂を下り、置塩城へと取付いた。 置塩城は、南条山の西方に張り出した支尾根上に築かれていた。 南条山との間は、両方に急斜面を持つ鞍部で仕切られていたが、 比高差で言えば、ここが一番の弱点と言えた。 この城は播磨国守護赤松氏の本拠らしく、広大な城域を持ち、 矢倉や屋敷が立ち並び、高い石垣や土塁をめぐらせ、庭園まで備える壮麗な城郭だった(※6)。 しかし、赤松氏は内憂外患が打ち続いて求心力が失われていて、 この城も守備が十分とはいえなかった。 そこを、彼ら恒屋勢が夜襲を掛けたのである。 初めは、不意の夜討ちとあって赤松勢は混乱した。 しかし、急斜面による攻めにくさや、最新の矢倉(※7)を活かした防戦で時間を稼いだことが、 状況を変えた。 近隣から、白国次太夫、上月満秀、芥田氏と言った味方たち(※8)が、 御屋形たる赤松氏を守るべく駆け付け、次第に恒屋勢は押し戻された。 南条山と、その斜面は恒屋勢の撤退を拒むように立ちはだかった。 後ろから迫る赤松勢と、矢の雨。 伊賀守は命からがら尾根に抜けたが、肥前守は白国次太夫に討たれた(※9)。 そして、恒屋伊賀守の播磨奪取の野望はついえた。 * * * ※1:多くのサイトでは肥前守を恒屋城主=家督としているが、 たまたま見た文書での刷り込みと、卒論の思い出から、私は恒屋伊賀守を城主にしておきたい。 ※2:宇野氏は恒屋正友の実家との説があるらしい。 また、宇野名字は赤松氏の一門を示す名字で、分家が名乗る。 この時代、一門も敵になりやすい。同じ血筋での財産争い、と考えれば現代に通じる。 ※3:現在の読みはおきしお。当時はおじお/おしお。国指定史跡。 ※4:三角点名:谷山 ※5:南条山城。また、置塩古城とも。 ※6:発掘成果より。 ※7:塼(せん)列建物を指す。塼とはタイルみたいな焼き物。 土蔵的機能の建物とされているが、シンボリックだし、矢倉機能がもしあったらって、ね? ※8:いずれも兵庫県史収録。赤松則房の感状が残る。 ※9:肥前守が討たれるところの筋書きは、播磨屋さんのブログからのアイデア。 * * * (城登ってるとき、文書と成果と伝承と組み合わせて、 大体こんな妄想しながら登ってる。やっぱり危ないやつだw) さて山登りの本題に。 ●主家赤松氏に夜襲を掛けた恒屋氏の恒屋城と、その夜襲ルートを体験しに棚原山へ。 溝口駅~恒屋~恒屋城~恒屋~墓地横「棚原登り口」~(自然歩道経由) ~御香之場~八葉寺分岐~棚原山~坂地峠~(林道塩田線経由)~恒屋~溝口駅 ■恒屋城 卒論執筆時に、わずかに触れた恒屋氏。「恒伊」。 赤松に反逆し、夜襲を掛けた恒屋氏の城郭であることと、畝状竪堀群が存在することで、前から行きたかった。 (前から行きたかった、を最近多用するのは、逆に言えば、今その機会を得ているから。 あれだけ失った代わりに得た、今をチャンスと思っている。) 見たところは、恒屋氏が秀吉に下ったあとの城と思う。 正直、畝状竪堀はよくわからない。 大半が藪に埋もれている、という意味でも、畝の掘り方が甘い、という意味でも。 長大な横堀や、明瞭な通路・虎口構造が、この城の特徴で、本当の魅力。 ■棚原山へ 恒屋からの道は荒れていた。通行不能ではないが、快適とは言えない。 Web上にある、H16(2004)、H21(2009)、H28(2016)の山行記録と比較すると、格段に荒れている。 2016春時点でも、問題なく通行できていたようなので、近年急速に荒れたことになる。 御香の場手前の鞍部での立ち枯れ+倒木がひどい一方で、雑木が路上に生えることは少ないので、 今年の台風が主要因かもしれない。 本当は、南条山(南条山城もしくは置塩古城、三角点名:谷山)~城山(置塩城)への縦走で、 恒屋勢の置塩城夜襲ルートを再現したかったのだけれど、 大阪出発が遅れたのと、棚原山までで気力をそがれたから一切未練なく撤退。 眺めも悪かったが、藪山経験の一つと思って納得。
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