活動データ
タイム
03:05
距離
4.4km
のぼり
68m
くだり
68m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る今年は、明石城 築城400年祭という事で イベントが盛り沢山です。 その1つの目玉イベとして、今回の、国の重要文化財 坤櫓の特別公開を挙げたいと思います! 全国に現存三重櫓は12基しかなく、その内2基を明石城で見れる事になります。 ちなみに、現存天守も全国に12城しかありません。私は、現存12天守は全て訪城しました。次の新たな目標として、全櫓の訪城を達成したいと思っております。 さて、現代では、明石城の巽櫓と坤櫓に限らず全国のお城の建築物は、戦国から江戸時代の歴史遺産として、大変に貴重な建築物である事は言うまでもありません。 しかし、過去を振り返ってみると、武家政治の終わりを告げた大政奉還後の明治時代になると、全国のお城が廃城となり、その役目を終えたお城が次第に姿を消していく時代。。武家社会の象徴でもあった為が故に、政府の中央集権にはそぐわない建物として消え去っていったお城の事を考えると、とても無念で残念な気持ちしかありません。なので、歴史的に価値のあるものとは思われない時代にあって、よくぞ残ってくれた!と、誉めて挙げたいくらいなのです。これまでの保存活動に尽力をされてこられた方々に感謝いたしたいと思います。 この明石城の築城歴史は、江戸時代初期の頃に始まります。 1615年の大阪の陣が終わって(俗に戦国の世の終わり)、徳川秀忠の時代に入ってもなお、未だに西国の外様大名には警戒を怠らないよう、そのために備える必用もありました。 そこで幕府は、西国と四国道の両方を抑えられる地の選定に着手しました。 ここで、明石の地が登場します。 ちなみに、明石の「明」は、月明かりの「明」です。この場所は、月が綺麗に見える名所だったので、一字をとられたそうです。明石と呼ばれるようになったのはこの頃から。小笠原氏が名付けたそうです。 築城の候補地として明石の地が選ばれた理由は、姫路城を破られ、淡路からも攻められても、陸と海(大阪から海路)からの挟み撃ちが出来る場所、それが明石だったそうです。 城は幕府普請事業です。幕府からの資金と各大名の支援で、突貫工事にて短期間で出来上がりました。幕府の力を見せ付ける為、急いだのかもしれません。 城の石垣には、1400余りの刻印が押された石が見つかっています。大名達が幕府に対しての忠誠アピールポイントだったのでしょう。 #次の巽櫓の公開が待ち遠しい。。(^o^;)
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