活動データ
タイム
04:50
距離
11.6km
のぼり
543m
くだり
544m
活動詳細
すべて見る先週は同じ瀬戸内市長船(おさふね)町の築山古墳~美和神社~高山を訪問しました。 今回はその東隣の山域巡りです。 【四辻山~龍王山~八反峠までの尾根道は迷路】 今回の出発点は四辻山頂上直下の駐車場です。 麓に駐車スペースらしき場所がないので、ここにしました。 四辻山展望台<写真01>までは道が整備され、とても歩きやすかったのですが、 四辻山頂上三角点<写真03>から龍王山<写真05>、八反峠<写真09>に 至る尾根道は半ヤブ状態で、何度もルートファインディングを強いられました。 結果的にはアドベンチャーな山行となりました。 【八反峠から里山の魅力を満喫】 八反峠からは周辺の山々を見渡しながら、 水鳥のいる池や古墳など寄り道して、里山散策を楽しみました。 龍王山(=雨乞いの神様が祀られている山)があることからも、 ため池の多い地域であることがわかりますが、 乢(たわ)池<写真21~23>にだけカモが集中して観られました。 また、西ノ宮集落から荒池にかけて、古墳探しに興じました。 「塚のマチ古墳群」は分からずじまいでしたが、 「惣田奧古墳群」の1号墳は目立つところにあり、石室内にも入ることができました。 意外な出会いは「渋染一揆野営の地」でした。 1856年、岡山藩で起こった渋染一揆はえた・ひにん身分による日本初の一揆として有名です。 1855年、藩財政が逼迫していることを理由に、領民に29 か条の「御触(倹約令)」を出しました。 その最後の五つの条文がえた・ひにん身分に対してかなり厳しいものでした。 要約すると、 「着るものは、無紋・渋染・藍染に限る。百姓に会うとき、はだしであいさつをしなければならない」などです。 これに反発して強訴が起きました。 1856年6月13日夜半~14日にかけて、八日市河原<瀬戸内市福岡城跡>に数千人が集まり、 午後3時ごろ、筆頭家老(伊木家)の陣屋のある瀬戸内市の虫明(むしあげ)に向かいました。 ところが、今の備前市に入り、伊木家の軍勢に行く手を阻まれました。 八反峠<写真09>を越えると家老の陣屋ですが、 峠の手前を西に下った佐山地区<写真20>で野営しました。 翌15日にかけて、伊木勢の陣取った佐山村榎塚で交渉が行われました。 たいていの一揆の場合と同様、嘆願書の内容は認められましたが、 後に首謀者が囚われました。その後、赦免を願う嘆願書が出され、 1859年に残る5名が釈放されましたが、すでに6名が獄中で亡くなっていました。 想定外の自然や史跡の発見も含め、味わい深い山行となりました。
動画
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