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「秋の八十里越の県境を越えて~只見いいところめぐり、いいものめぐり~」バスツアー

ジローさん YAMAP Meister Black

  • YAMAPマイスター:ブラック
  • 自己紹介:いつか山登りがしたいと思いつつ、ずっと行動に移せませんでした。山登りをするには何が必要か?と知り合いに尋ねたところ、登山靴とザックだけだと教えてくれたので、それならと登山靴を買いに行った翌朝、粟ヶ岳の山頂に立っていました。人生は素晴らしいです。体力はともかく、筋力の衰えを感じますので、トレーニングもやって行きたいと思います。
  • 活動エリア:新潟
  • 性別:男性
  • 生まれ年:1973
  • 出身地:新潟
  • 経験年数:3年未満
  • レベル:中級者
  • その他 その他

八十里越

2014/10/26(日) 20:26

 更新

「秋の八十里越の県境を越えて~只見いいところめぐり、いいものめぐり~」バスツアー

公開

活動情報

活動時期

2014/10/19(日) 09:45

2014/10/19(日) 17:29

アクセス:873人

軌跡・時間・距離

軌跡データをダウンロード
累積標高上り 4,738m / 累積標高下り 5,113m
活動時間7:44
活動距離136.22km
高低差726m
カロリー4060kcal

写真

動画

道具リスト

文章

三条観光協会企画の「秋の八十里越の県境を越えて~只見いいところめぐり、いいものめぐり~」バスツアーに参加してきました。工事中の国道289号線の八十里越道路を通るツアーで、只見町の観光も兼ねています。

8:30 道の駅「漢学の里しただ」
◎諸橋轍次記念館特別展見学
==R289八十里越工事道路
◯県境トンネル新潟側出口(交流イベント、八十里越事業説明)
==◎叶津番所跡見学
==只見町旅館にて昼食
==◎河井継之助記念館見学
==◎J POEWR電源開発只見展示館
==R252経由
==道の駅「漢学の里しただ」 17:30着

5千年以上も前の火炎式土器の文様を見ると、古くより三条と只見の交流が盛んだったことが分かるそうです。それに、三条で多い五十嵐、坂井、菅家という性は只見も多く、祖先を遡ると三条から来たという話も多いとか。交易を含め只見と三条の往来があったのが八十里越えという峠道になります。新潟-福島を越える峠は魚沼から越える六十里越えもありますが、かつては道が狭く、馬車道が確保できた広い八十里峠の方が一般的で、年間で2千人を越える人の往来があったと言います。しかし、車社会に変わり、国道252号線が開通したことから八十里越えは廃道となってしまいました。一度は途絶えた会津と越後の道が時を超えて再び結ばれるというのが「国道289号八十里越」なのです。昭和61年から工事に着工していますが、厳しい自然環境と豪雪のため、工事期間は年間半年足らずで、一向に開通の目処は立っていません。工事が国と福島県と新潟県それぞれに分かれているのも工事の進行を難しくさせているようです。しかし、国道252号線は冬季閉鎖されてしまうので、国道289号八十里越が開通をすれば、間違いなく今までより地域間交流・連携が活発になります。そればかりではなく、救命救急体制も大幅に向上します。というのも、只見町から基幹病院のある会津若松までは約90㎞2時間。数年後、燕三条に基幹病院が完成することを見越すと八十里越道路で約30㎞1時間で緊急搬送が可能になるのです。心筋梗塞は1時間半以内の処置が生死を分けるので、只見町にとって八十里越道路は命の道路というわけなのです。河井継之助記念館で説明してくれたボランティアの方が、心筋梗塞で会津若松市へ搬送され、亡くなった友達の話を無念そうに話してくれました。
話は変わりますが。八十里越は、幕末の長岡藩の家老河井継之助の最期の地としても知られています。このツアーでは只見の河井継之助記念館の見学も含まれていました。長岡では河井継之助を「つぎのすけ」会津では「つぐのすけ」と発音するそうです。司馬遼太郎の峠に「つぎのすけ」と表記されているので、長岡でそのように発音するのは峠の由来と思わます。しかし、現存する継之助の姉の末裔の話では「つぐの」と呼んでいるという話があることから、会津の「つぐのすけ」が正しいと言われているそうです。倒幕を果たし、明治政府を開いた西軍に敗れ、八十里峠を敗走した継之助は、会津藩同様に賊軍ということになりますから、歴史的に悪者として扱われてきました。特に出身地の長岡では語られてこなかった負の歴史ということからでしょう。故に名前の発音が正確に伝承をされなかったり、河井継之助記念館も会津只見では3代目の建物になるのですが、長岡ではわずか7年前に初めて建てられたにすぎないというわけです。只見で最期を迎えた継之助は会津藩の村の人から丁寧に葬られ、祀られたそうですが、継之助のの墓と分かってしまうと、明治政府から取り壊され、それを建てた只見の村人も被害を被りますから、墓ではなくあえて神様を祀る祠の形にし、文字を一切記さないものを建てました。何の祠か分からないわけですが、只見の人だけが継之助の墓だということを知っており、口伝えにに現代まで大切に祀られています。一方、長岡の河井継之助の墓は負けたものの恨みから破壊され、見る影もないそうです。まさに勝てば官軍。歴史の重みを痛感しました。只見と長岡の河井継之助を扱う温度差の違いはこのような歴史的背景があってのことだと知りました。
時を遡り、歴史のロマンに想いを馳せることのできるのも、八十里越の素晴らしさです。開通まであと5年位はかかると思いますが、開通を待ち遠しく思います。
来年には必ず、徒歩で八十里越えを果たそうと思います。

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